【明日への約束F】 P:03


 桜太の身体が熱くなる。
 互いにすれ違うばかりだった気持ちが、初めて隣に並んだのだ。

 桜太は息を吐き出して初めて、自分が呼吸さえ忘れ時雨を見ていたのだと知った。
 濡れた時雨の着物に、桜太の体温が吸い取られていく。それは全然、不快なものじゃなくて。いっそそうして、自分のものが時雨に奪われていく感覚は、桜太を甘い陶酔へ誘う。
 その気持ちのまま、ゆっくりと溜め息を吐き出して。目蓋を閉じ、開く。
 ここにあるものの全てが、偽りでも夢でもないのだと、見定めようとするみたいに。
 時雨に抱きすくめられたままの、腕の中。桜太は柔らかく、微笑んだ。
「時雨…」
「うん」
「もう、自分が悲しくなるようなことは、しちゃ駄目だよ?」
 諭してくれる優しい言葉に、時雨は素直な気持ちで頷いた。この子が愛しいと、誰にも渡したくないと、心から思う。
 桜太は許すと言う代わりに手を伸ばし、時雨のまだ濡れた髪を撫でていた。そこから伝わってくる、温かいもの。時雨の中で固く凍り付いていたものを、ゆっくり溶かし、癒してくれる。
 ふと弥空の手で露にされた桜太の白い肩に目を止め、時雨はそこを撫でて、唇を押し付けた。
「っ、あ…しぐれ…」
 舌先で曲線を辿り、首筋に吸いついて。桜太に微笑みかける。
「…約束は、守るためにするんだったね」
「うん」
 約束は、守るためにするものだから。だから先に死んだりしないと誓った約束を、桜太は必ず守ると言ってくれた。
「じゃあ、あたしがお前さんを大事にしている限り桜太はあたしを置いていったりはしないと、約束するんだね?」
「うん。約束する」
「…なら、あたしも。雷が鳴る日は、必ずこうして。…桜太を抱いていると、約束しよう」
 桜太の細い腰に手を回し、帯を解きながら。時雨は桜太の身体に唇を寄せる。しかし桜太は、つっと時雨の髪を引っ張って、その動きを止めさせた。
「桜太?」
「ねえ、時雨。それは…兄ちゃんの、代わりに?」
 囁く桜太の顔は、切なく苦しげだ。その表情は、圭吾(けいご)の代わりでは足りないんだと、ねだっていた。
 艶めかしい表情。
 慈愛などでは満足できないと、時雨に訴えている。
「圭さんはこんなこと、しないだろ…?」
 着物の間から手を差し入れ、時雨は真っ白な肌に吸い付いた。ちゅっと強く吸い、離れる。赤くなったそこを舌先で弄っていると、桜太の身体が少しずつ紅潮してくるのがわかった。
「あ、あ…んっ」
 甘い甘い、蕩けるような喘ぎ声。
「可愛いね、桜太」
「しぐれ…しぐれ、きいて…」
「なんだい?」
「ね…っあ!んんっ、だめ…ちゃんと、きいてってば」
 桜太は悪戯な時雨の手を、上から押さえて目を開けた。ぽろりと零れていく涙が、感じている証拠だと気づいて。時雨はざわりと身体を震わせる。
 でも、何かを訴える唇が薄く開き震えているから。時雨はなんとか理性を総動員させて、桜太の言葉を待ってやった。
 時雨を見つめている、澄んだ瞳。
「…時雨が、すき」
 何度目かの告白。
 桜太の言葉は、子供の思い込みでも、勘違いでもない。いや、たとえそうだとしても、時雨はもう桜太を逃がしてやらない。
「ああ、桜太。…あたしも同じだ」
「…ほんと?」
 不安げに首を傾げている。
 そういえば自分から、確かな言葉を伝えたことはなかったと。時雨はすうっと真剣な顔になって、熱が引いたかのように恭しく、桜太に唇を重ねた。
「時雨…」
「好きだよ、桜太」
「うん」
「本当にお前が愛しい。…ああ、言葉にするのは、難しいね」
 切なく眉を寄せながら、時雨は言葉を紡ぐ。
「深夕が逝ったとき、あたしも死んだんだと思い込んだ。だからあたしは、もう二度とあんな風に、誰かと心を重ねたりしないんだと。…思ったんだ」
「…うん」
「でもね、桜太…桜太と会ってからのあたしは、やっと思い出したんだよ」
 ふっと頬を緩める時雨のことを、桜太がじっと見守っている。
「…何を思い出したの?時雨」
「そう、あたしはここいるんだってこと。あたしの上には毎日お天道様が昇って、沈んで。雨が降って、風が吹く。あたしは死んだわけじゃない。深夕と離れたことは悲しいことだけどね…それでも、あたしは生きていかなきゃいけないんだ…」
 深夕を愛していた自分も、桜太を愛しいと思う自分も。全部さらけ出して、時雨は熱く桜太を見つめる。
「…桜太」
「うん」
「桜太がいたから、あたしは生まれ変われたんだ」
 時雨の深い色の瞳に、桜太だけが映りこんでいた。間近な瞳の中にある自分の姿が、いつもよりずっときれいに見えて、桜太は面映げに微笑んだ。
「もう離してやらないよ?」
「…わかった」
 小さく頷いて。桜太はそっと手を伸ばすと、時雨の瞳の中にいる自分の姿を愛でるように、彼の目のふちに指を辿らせる。