熱い熱い夜が明け、朝になって。
障子越しに外から差し込む陽光の暖かさに、昨日の雨が止んだことを知る。
眠い目をしばたかせ、傍らの気配に気づいた時雨がぼんやり瞳を開けると、きれいな顔で微笑んでいる桜太が、時雨の長い髪に触れていた。
――夢じゃ、ない……
桜太がいる……。
彼が約束したとおり、明日も明後日も、時雨が目覚める傍らには桜太がいるのだ。
ゆっくり身体を起こした時雨は、肩に着物を羽織った桜太を引き寄せ、熱い時間の名残りを惜しむように口付けた。
昨夜の妖艶な桜太とは、比べようもないが。その姿には、子供っぽさもない。
目を閉じて素直に応じた桜太は、そっと視線を上げると、また時雨の髪に指を絡めている。
「どうした?」
「うん…最初にね、口付けてくれた日から、ずっと触れたかった」
「あたしの髪に?」
「髪とか、髭とか…」
小さな手が時雨を辿る。
愛しげな表情で柔らかく髪を引っ張り、ふふっと少し笑って。そのまま時雨の頬に手を添えた桜太は、ざらりと髭を撫で、唇を寄せた。
「ん…」
でも、ちゅっと吸い付くだけ。そのまま離れていって、また時雨の身体に触れて。まるで桜太の方こそ、時雨の存在を確かめているみたいに。
「桜太…」
「最初に会ったとき持ってきたの、あれ朔(さく)の着物だった?」
「あ?…ええと」
何のことかわからず首を傾げる時雨の、腕の中に納まって。ここが自分の居場所だと微笑む桜太は、最初に会ったときのことをかなり細かく覚えていた。
圭吾の仕事場で会ったとき、圭吾に叱られた桜太を時雨が庇い、頭を撫でてくれたのが最初だと。
あの時、時雨が着ていた着物の色から、圭吾に届けた朔の着物の色まで。
「…よく覚えてるねえ」
感心する時雨に、桜太は少し唇を尖らせる。
「覚えてるよ。だって、初めて時雨と会ったときだもん」
「そうなんだけど…あれ?」
不思議そうな顔になって。時雨は沈みきっていた記憶を呼び起こした。
「あの時って、まだ朔が圭さんの所へ来てない時だよね?」
「そうだよ」
「桜太とこうして…」
言いながら、小さな唇を塞ぐ。甘い唇を味わい、離れた時雨は濡れたそこを指先で拭ってやった。
「秘密を約束したのって、もう少し後じゃないかい?」
悪戯心を起こして、桜太に口付けたとき。あれがきっかけだと、時雨は思い込んでいたのだけど。
「そうだけど…ぼくが時雨に触れたいって思ったのは、最初に会ったときだもん」
時雨の記憶にはわずかにしか残っていない、そんな出会いの時から惹かれていたのだと桜太は言う。
けして、初めて唇を重ねた人だから思い込んだのではないのだと。
呆然として、時雨は頭を掻いた。
「なんだい…それ」
「どうしたの」
「どうしたのじゃないよ…それだったら最初からそう言えばいいじゃないか…」
自分の悪ふざけが招いたことだと思っていたから、桜太に勘違いだと言ったのに。時雨はそんな風に言って拗ねるが、きっと話していても同じだたろう。少年に想いを伝えられたって、最初から受け入れることなど出来なかった。
「だって。聞かれなかったもん」
くすっと笑う桜太は、時雨の腕の中で再びその肌に手を這わせる。そうして何かを思い出したように、顔を上げた。
「ねえ、時雨。背中も見ていい?」
「背中?」
「うん。兄ちゃんと話してたでしょう?牡丹があるって…昨日、少しだけ見えたけど。ちゃんと見たい」
夕べはそんな余裕、なかったから。
「ああ、いいよ」
時雨の了承に嬉しそうに笑った桜太は、包まれていた腕の中を抜け出し、両手両膝をついたまま、這うようにして時雨の後ろに回った。するりと背中を撫でた手で、一度背中に抱きついてから。身体を離して美しい牡丹を見つめる。
咲き誇る、大輪の花。
まるで朝露が零れてきそうに、その花は時雨の背中で輝いている。
「すごい…きれいだね」
「気に入ってくれたんなら、嬉しいよ」
「これ、兄ちゃんの仕事なんでしょう?」
「ああ。そういえば圭さんが彫り師だってこと、知らなかったんだっけね?」
「うん…絵を描くような仕事だって言うのは、知ってたけど。…ねえ時雨、こういうのって、痛いの?」
「さてねえ…あたしは圭さんの腕しか知らないから。あまり痛いとは思わなかったけど、他の人が彫るとかなり痛いって聞いたことがあるねえ」
「すごいね…」
ため息をつくような賛辞。
「兄ちゃん、ほんとに器用なんだよ。何でも出来ちゃうの。…でも料理だけは苦手なんだよね」
「桜太が飯の支度してるって聞いたけど」
「そうだよ。だって兄ちゃんに任せたら、お酒の肴みたいなものばっかりになるし。大雑把だから、作るたびに味が違うんだもん。だから毎日ぼくが作ってた」