■ 勘違い恋愛講座
ずっと、時雨のことばかり考えてしまう。
ぼうっとする桜太は思わず包丁を取り落とし、寸でのところで朔が受け止めた。桜太は慌てるが、まだ朔は運命から開放されていない。
「大丈夫ですよ」
笑って。しかし朔は桜太の顔を覗き込み「どうしたんです?」と聞いた。最近、どうにも様子がおかしいから。
桜太は少し迷うものの、圭吾がいない今ならと思って、朔に相談を始める。
「朔…兄ちゃんに手を握られたら、胸がどきどきして苦しい?」
「……は?!」
「朔は兄ちゃんに、可愛がって欲しいの?」
「なっ!?…あの、えええっっ!?」
まさか自分たちの関係を桜太に知られているとは思っていない朔は、慌てふためいているが。桜太は神妙な面持ちで自分の唇に触れた。
「口をくっつけると、みんな手が震えてその人のことばっかり考えるの?…それは、変なことじゃないの?」
朔は動揺を押し隠して「変なんかじゃありませんよ」と囁いた。
胸が震え、息苦しくなるのは大事な相手を見つけたから。誰かを想うようになると、今まで大切だった人たちの傍を、離れていられる強さが身につく。誰に何を言われても、傍にいたいと思う気持ちを止められなくなる。相手の酷いことでも、許せてしまう。重ねた唇が熱かったら、きっと相手も自分を想っていてくれている証拠になる。一緒にいたいと思う気持ちは、なによりもかけがえのないものだ。
(朔さんの恋愛講座。それアンタと圭吾のことですか)
■ 町へ行きたい
朔の話に何か納得した様子の桜太は、翌日になって突然「町へ行きたい、町に住みたい」と主張する。
驚く圭吾は、自分に不満があるのか、朔が来てから寂しい思いをさせたかと、色々聞いてみるが桜太は首を振る。
「兄ちゃんや朔と離れていられるくらい、ぼく強くなったんだよ」
どこか朔の話を曲解してしまった様子。
常日頃から「行きたいところへ行けばいい」と口にしている圭吾だが、あまりに早すぎる巣立ちに戸惑いを隠せない。しかしそんな時
「いいんじゃないの。行かせてやれば」
ひょっこり顔を出したのは、時雨だった。
無責任なことを言うな、そもそも住居や生活はどうするんだ。どうにも桜太を手離したがらない圭吾の言葉を聞いて、時雨は「そうだねえ」と思案を巡らせる。
「ああ。じゃあ、あてがあるから(自分が)引き受けようか?……あんただって、楽しみたいんじゃないの」
朔と、存分に。
そういうことじゃない、と圭吾は眉を寄せるが、懸命な様子で自分の決断を待っている桜太を見て、仕方なく了承する。
許可が出て喜ぶ桜太は、じっと時雨を見ていた。自分のことを引き受けると、連れて行ってくれると言った時雨のこと。潤んだ瞳がずっと見つめている。
(新婚生活を手に入れられて、良かったじゃん圭吾)
■ 町
何度も何度も、しつこいぐらいに「いつでも戻ってきていいんだ」と圭吾に朔に言われた。でも桜太は後悔なく、時雨と共に町へたどり着く。
しかし桜太は町へ着くなり、大きな商家へ連れて来られた。しかも通されたのは、表の店ではなく裏口だ。勝手知ったる様子で、時雨は家の中へ桜太を導いていく。しかし庭から上へは上がろうとしない。
不思議そうに時雨を見上げる桜太。
通りがかりの使用人らしき人物は、不審そうに眉を寄せて時雨のことを「若旦那」と呼んでいる。しかし中へ入れとは言わなかった。時雨に誰かを呼ぶよう頼まれた使用人は、あからさまなほど迷惑そうに了承して、障子の向こうに消えていく。
時雨に向けられる、冷たい視線。時雨を見上げる桜太は、時雨がけして口にはしない心の動きを、じっと見つめていた。
しばらくして、桜太よりいくつか年上の少年が現れる。彼は時雨のことを父と呼んでいた。息子は父のことを冷たい目で見たりはしなかったが、しかし周囲に気を配っている様子が伺える。
時雨は事情を話し、息子に桜太を引き渡した。慌てた桜太は立ち去ろうとする時雨を追いかけるが「頑張んな」と言われて思わず立ち止まる。
振り返り、膝を折った時雨は最初会ったときのように、大きな手で桜太の髪を撫でてくれる。
「ここは、いい家だから。お前さんが頑張れば、きっと良くしてくれる。だから頑張んだよ」
そんなこと。そんな悲しげな顔で言われたら、反論できなくて。桜太はじっと時雨を見つめ、下を向いた。
(時雨さん…意外と無責任な行動ですよそれ)