■時雨の葛藤
弥空が帰っていって。時雨は眠ることも、ろくに動くことも出来ないでいる。
息子の言葉がぐるぐると回っていた。まだ子供だと思っているのか、なんて。とんでもないことを言い出した弥空。
抱いてから考えると言った息子に、愚かなほど焦っている自分がいる。
吸い込まれそうな瞳で時雨を見上げる桜太。可愛い顔立ちの中にあって、優しく澄んだ心根を表すかのような瞳が、時に熱っぽく潤むことを知っている。最初に引き寄せられ、思わず口付けたのは時雨なのだから。
あんな桜太に見上げられ、名前を囁かれては、さすがの弥空も篭絡されるのではないかと考えて。そうなったとき…弥空が無理矢理に桜太を手篭めにしたら、自分は父親として、いや桜太の想い人という立場で、彼を許してやれるだろうかと。
そう考えたとき、時雨は気づいた。
自分はもう、桜太を自分のものだと思っている。
耳の奥で、弥空が、小春が「観念しろ」と時雨を責めていた。
首を振って、時雨は否定ばかりを並べる。
幼い桜太は、圭吾からの預かり物。何も知らない少年に、自分のような汚れた大人が触れてもいいのかと。いいはずがない。華奢な桜太を自分が抱きしめて、何が生まれるというのか。苛む声に従って、時雨は自分が桜太に抱き始めている情欲を、封じ込めようとしていた。その時。
――信じて…
囁く桜太の声が、蘇る。時雨は動揺した。
あのときから自分は、桜太を子供だなどと思っていないのか。
時雨の心を表すかのように、外から雨音が聞こえてくる。いくらも経たないうちにそれは激しくなり、空気を湿らせる。時雨がよろよろ立ち上がったとき、遠く空が鳴いた。
真っ青になって、雷に怯えていた桜太を思い出す。その瞬間、もう走り出していた。
■時雨と近江屋
近江屋へ向かうのに、躊躇いはなかった。裏木戸を開け、庭に踏み込んだとき。義父が通りがかって驚かれる。
「桜太はどこにいますか」
時雨はもう、一刻も早く桜太のそばへ行ってやることしか考えていなかった。
必死な様子の時雨をじっと見つめ、義父は「なあ時雨」と、やけに穏やかな声へ話しかける。
「お前は深夕が死んだとき、どう思った」
唐突にそう聞かれ、少しだけ冷静になった時雨は、荒々しく吐き出していた呼吸を整えた。
「私も死にたいと、そう思いました」
時雨の言葉に満足したのかどうかはわからないが、義父は神妙な面持ちで「そうか」と呟いた。腕組みをして何事か考えている彼はふいに顔を上げ、焦りを隠せない時雨の様子に苦笑いを浮かべた。
「お前はいつも、やけに切羽詰った顔をしておるな」
そんなことを言われ、時雨が驚く。
「相模屋にいると聞いている。何があるのか知らんが、お前が必要とされているなら、早く行ってやりなさい」
義父の言葉に時雨は深く頭を下げ、近江屋を飛び出していった。
(其の六、終了)