【1月ハチミツ-中編】 P:06


 確かに直人は泰成が日本にいる間、惺が何かを思い悩んで笠原家の裏庭に逃げ込むたび、全てを放り出して駆けつけた。
 試験だろうと友人との約束だろうと、直人は惺以外の全てを、後回しにしたのだ。
 しかしその頃と今では、背負うものが違いすぎる。

「そんなワガママを通したければ、直が弁護士になると言ったとき、反対すれば良かっただろう?」
「何で僕が…」
「それにしてもお前さんは、自分の足で立つことも知らん、震えて泣くばかりの直でいて欲しかったのか。望むのは共に歩いていける相手ではないのかね」
「………

「惺、変わらぬものなど何もないのだよ。無論お前さん自身であってもだ」

 そう言いながら、泰成は惺に自分の手を差し出す。しばらく迷って彼に近づき、その手を握った惺は、今度こそ本気で驚いて身体を震わせた。

「あ…」

 乾いた老人の手。青年の頃に惺の肩を抱いてくれた面影は微塵もない。
 細くて皺枯れていて……泰成の手は、こんなに小さかっただろうか。
 惺は息を飲む。
 どうしようもなく重いものが、喉の奥からせり上がってくる。唇を噛み締めても、じわりと目頭が熱くなっていくのが止まらない。

「わかるかな?」
「泰成…」
「残念だがわしはもう、長くない。いつまでもお前さんのそばにいてやることは、出来んのだよ」
「やめろ…やめてくれ」

 緩く首を振った。
 認めたがらない惺の手に、泰成は微笑を浮かべてもう片方の手を重ねる。
 じわりと温かくなっていくのが何より辛い。この手が冷たくなる可能性なんか、考えたくないのに。

「今すぐにどうこうという話じゃない。しかしわしは、確実に老いている。十年先なら、まだなんとか声を聞かせてやることが出来るかもしれん。しかしどんなに足掻いても、二十年先は彼岸の向こうだ」
「なぜ今そんなことを言うんだ?!そんなこと…僕に聞かせるな…っ」

 泰成の手を握り締めたまま、惺は膝をついた。額にその手を押し付ける。
 大人びた声で惺を諌める直人。
 乾いた手で惺の頭を撫でる泰成。
 なぜ人はみな、惺を置いて変わっていくのか。どうして同じでいられない?

 嗚咽を噛み締めている惺の髪を撫でていた泰成は、静かに部屋へ戻ってきた秀彬に笑いかけて、寂しそうに目を細める。
 きらきらと美しく、何にでも混じりあうのに、存在を主張しつつける人。甘くて強くて融通の利かない惺。