どうせ女が出来たんだとか、子供を押し付けてとか、母さんがそんな風に言ってた気がするけど、俺にはよくわからなくて。父さんは仕事か何かでいなくって、そのうち帰って来るんだって、ずっとそう思ってた。
でも父さんは帰ってこないまま、俺が八歳のとき、今度は母さんがいなくなった。
それまでも一日や二日、平気で家を空ける人だったから。冬休み前の終業式が終わって、学校から帰ってきた俺は、母さんがいなくてもあんまり不思議には思わなかった。
ぼんやりと、そのうち帰って来るんだろうって、父さんの時と同じように考えてたんだよ。
……いくら待っても、母さんは帰ってこなかったけどね。
狭いアパートに一人っきり。
料金を払ってなかったのか、部屋の明かりもつかない、テレビも見られない、電気の止められた寒い部屋で、俺はじっと膝を抱えたまま母さんを待ってた。
だって俺には、頼る人なんか誰も思い浮かばなかったんだ。
お腹がすいて、あるものを手当たりしだいに食べてたけど。冷蔵庫だって止まってたはずだから、中の物は傷んでたと思う。それでも俺はその辺のものを口に入れ、乾いたままのカップ麺とかを齧って、空腹を紛らわせてた。
凍るような寒さの中、毛布に包まってる俺の耳には、隣近所の音さえ遠くなっていく。
家の中には何一つ食べ物がなくなって、そのうち蛇口をひねっても水が出なくなって。でも俺は、母さんが帰ってくるって、頑なに信じてたんだ。
空腹より、乾きより、何よりも一人でいる孤独が怖かったのを覚えてる。
世界に一人で取り残されているようなあの感覚は、十年経った今でも俺を捕らえたまま。
お母さん、お母さんって。
音のしなくなった部屋の中、恐怖から逃れようとするかのように、俺は何度も何度も呟くんだけど。
そのうち声が出なくなって、口を開くことさえ難しくなっていった。
何日も経ってたはずなんだけど、日付とか全然わからなくて。元から栄養失調ぎみだった俺は、気づけば包まってる毛布を重いとさえ感じるほど力をなくして、立ち上がることも難しくなってた。
長くもない冬休みだけど、子供が一人で耐え抜けるほど短いわけでもない。本能的に危機感を覚えて、なんとかしなきゃって思ったときにはもう、考える気力さえなかったんだ。
じわじわと、指先から自分の体が腐ってぼろぼろになるような、そんな感覚が一番恐ろしかった。
不思議とそういう時、母さんや父さんに殴られたこととかは、思い出さないもんで。数少ない優しい記憶ばっかり、傷のついたCDでも聞いてるみたいに繰り返し思い出すんだ。
だからこそ、諦められずに。
母さんが帰ってくるって。
もしかしたら父さんが迎えに来てくれるかもしれないって。
そんなことばっかり考えて、何も出来ずただ、蹲っていた。
唐突に部屋を出る気になったのは、どうしてなのか。それが今でもわからない。
あの時の俺の状態を知ってる人たちは、よく自力で歩けたもんだって、不思議がるんだよ。今なら俺も、そう思う。
何日ぐらい飲まず食わずだったのか、知らない。ふらふらと部屋を出た自分が何を考えてたのか、思い出せない。
どうしようもなくお腹がすいたのか。
寂し過ぎて誰でもいいからに会いたかったのか。
母さんを探そうと思ったわけじゃないことだけは、わかってる。俺は保護してくれた人たちに聞かされるまで、自分が捨てられたなんて、思ってもみなかったから。
とにかく這うように部屋を出て、ふらふら立ち上がった俺は、ボロいアパートから抜け出した。二階の部屋から階段を下りたはずなんだけど、記憶は曖昧だ。ひょっとしたら落ちたのかも。
外は夜だったよ。
星のきれいな晩で、そういうところは、はっきりと記憶に刻まれてるんだけどね。
あてもないはずの俺は、何かに導かれるように歩き出してた。
誰もいない町の、裸足の足に冷たいアスファルトを踏みしめて。
遠く、人影を見たんだ。
その瞬間、俺の身体はふうっと軽くなった。あの感覚は今でも覚えてる。
なんか浮いちゃうんじゃないかってくらい、身体が軽くなってさ。自分でもバカだとは思うんだけど、飛ぶんだって、思ったんだ。ああ俺、飛ぶんだって。
そうしたら、遠かったはずの人影が間近にいて。真っ青な顔で俺の身体を抱きしめてくれた。
直人って、俺のこと呼んでくれたんだ。
母さんと同じくらいの歳に見えたけど、母さんよりずっと綺麗で、凛とした顔の男の人だった。
まるで飛んでっちゃう俺を、引き止めるみたいに強い力で抱きしめてくれた。
どうしてあの時、俺の名前を知っていたのか、今も聞けないままだけど。その時はそんなこと、全然気にならなかったよ。