覚えてるのは、あったかい腕と、冷たい頬。なんだかわかんないけど、俺はそのとき「ごめんね」って思ってた。
勝手に飛んでっちゃおうとして、ごめんねって。迎えに来てくれるまで待っていられなくて、ごめんなさい。そう言いたいのに、声が出なくて。言えないことがすごく辛かった。
なんだろうね、あの感じ。
いくら考えてもあの数日の記憶は、曖昧だったり、いい加減だったりして、自分でも説明できないんだ。
でも俺を助けてくれた人は、震えてるみたいな声で「もういい」って「わかったから」って言ってくれた。
すごく嬉しくて。なんかほっとして。
暗くなっていく意識の中、俺は自分を抱き締めてくれている人の顔を、刻み付けていた。
その人が、惺だったんだ。
切れ長の瞳が冷たい印象を与えてしまう惺は、そのもの印象のまんま、誰にでもちょと冷たくて、厳しい態度の人。
でも俺は、薄くなってく意識の中で、彼をヒーローみたいだなって思ってた。
天使とか神様じゃない。
俺だけの、正義の味方。
目を覚ましたのは、ふかふかのベッドの中だったよ。青ざめた顔の惺が、俺を見下ろしてた。それだけでなんか、幸せで泣きたかったのを覚えてる。
起きようとしたのを止められて、どこか痛い所はあるかって聞かれて。首を振ったら惺は、立ち上がって後ろを向こうとしたんだ。
俺さ、惺が行っちゃうって、そう思ってね。情けないくらいの弱い力で惺のシャツ掴んで「行かないで」って泣いたんだ。
惺は困った顔をしてたな。
そりゃそうだよね。ずっとそこに座ってるわけにはいかないのに。
そしたら今度は、アパートの管理人さんと同じくらいの歳のおじいちゃんが、俺を覗き込んできた。
―――目を覚ましたか。名前はなんだったかな?
そう聞いてくれたのが、笠原のじいサマ。この時に俺は、初めてじいサマに会ったんだよ。
俺、なおと、って答えようとしたんだけど。上手く声が出せなくて「なお」ってなって。それ以来、じいサマには「直」って呼ばれてる。
寝かされてたの、てっきり病院かなんかだと思ってたんだけど。そこは病院じゃなくて、テレビでも見たことないような、大きくて豪華な屋敷の一室だった。
お手伝いさんとか一杯いて、門から家までしばらく歩かなきゃいけないような。笠原本家の邸宅。
その後、惺は色んな言葉を並べて、じいサマに俺を引き取るよう持ちかけてた。自分みたいな人間より、笠原の家の方がいいとかなんとか。でもじいサマは、頭を縦に振らなくて。三日ぐらいしたときかな?じいサマが俺に聞いたんだ。
―――いいか、直。お前さんにはいま、三つの道が用意されている。
一つは親に見捨てられた子供として施設へ行き、それなりの教育を受けて生きていくことだ。
二つ目はここに残り、何不自由ないが窮屈な笠原家の居候として、生きてく。
三つ目はこの惺と一緒に、楽しく暮らすことなんだが…お前さんはどうしたいね?
今考えたらこれって、すごい三択だよね。少なくとも八歳の子供に尋ねることじゃないと思うんだけど。でも当時の俺には、よくわかっていなかった。
惺が苛立たしそうに「子供相手に卑怯なことを言うな」って言ってた。
惺はさ、俺のことじいサマに押し付けたかったみたいなんだ。……まあ、そうだよね。結婚もしてないのに、俺みたいなお荷物を引き取りたくなかったんだろうな。
でも俺はその時、何も考えずに惺の身体に抱きついて「惺がいい」って訴えた。
―――惺がいい!惺とずっと一緒にいる!
惺の迷惑になるとか、惺を困らせてしまうとか、全然考えずに訴えたんだ。
このままじゃ惺と引き離されるんじゃないかって思って、そればっかりで。
惺にしがみついたまま、泣きじゃくって「一緒にいたい」って何度も訴えた。
だって、俺は。
もう母さんや父さんなんか、一生会えなくなっても構わないってくらいに、惺のことしか見えなくなってた。
俺にとって惺は、正義の味方だったんだから。
惺は今、翻訳を仕事にしてる。
俺を引き取るまでの彼が、何をしてたのか知らないけど。俺を引き取ってから、惺は翻訳家になったんだ。
命を落としかけるまで、暗い部屋に一人で蹲ってた俺は、その後も極端に孤独を恐れるようになってた。今はまだマシなんだけど、引き取られてすぐの頃なんか、ちょっと一人にされるだけで、過呼吸起こすぐらい酷かったんだ。
じいサマが手配してくれて、病院とかカウンセリングとか、いっぱい通ってたけど。どうしてもすぐには良くならなかった。
そのせいで学校にも通えなくて、同い年のはずのナツアキがいる嶺華へ転入したのも、一学年遅れになったんだ。