だから惺はそんな俺のために、家で出来る仕事を選んでくれたんだよ。今ではたまに外へも出るけど、昔は打ち合わせなんかも、ずっと家でやってくれてた。
惺は翻訳家としては珍しいタイプらしくて、多言語翻訳家っていう肩書きで、様々な言語の原稿を、日本語だけじゃなくて必要に応じた言語に訳してる。
英語からフランス語とか、イタリア語から中国語とか。もちろん日本語もだけど。
訳す物は学術書とか、論文が多いから、たとえ日本語に訳してあるものでも、俺には難解で読むことが出来ないんだけどね。
惺の訳は正確だけど、情趣に欠けていてそこが残念だ……っていうのは、何度か会ったことのある出版社の人の言葉。
いつか童話や小説の訳もしてもらいたいんだって。
それなら俺も読めるし、惺がやってくれたら嬉しいんだけど。でもいつも断っちゃうんだ。夢物語は好きじゃないんだって言って。
物凄くきっちりしてる惺だから、いつもなら締切りに追われるなんてことは、まずない。日数的に無理なものは「物理的に可能かどうか、考えなさい」って言って、出版社の人を追い返してしまう。
でも、ほんのたまに。
今日みたいな日もあって。
昨日の夜、土下座せんばかりの編集さんから原稿を受け取った惺は、怖いくらいに不機嫌な顔で「明日は部屋にいるから」って言った。
いまだに一人を嫌がる俺の為、いつもはダイニングテーブルで仕事をしてくれる惺。
わざわざ「部屋にいる」って宣言されたってことは、俺が学校から帰って来ても、自分の部屋から出てこないっていう意味。
朝ご飯を一緒に食べてるとき、夜はここに惺がいないんだなあって思ったら、なんかすごい寂しくなって。
……だってさ、ほんと。めったにないんだよ?こんなこと。
だから迷ったんだけど、ナツアキと一緒に晩ご飯食べてくるって言ってみたんだ。
惺からは「そうか」って一言だけ返ってきた。怒ってるかな?と思ったけど、全然気にしてないらしくて。惺はいつも通り俺が学校へ行くときも、玄関まで送りに出てきてくれた。
まあ全然気にされないのも、ちょっと寂しいんだけどさ。
……そりゃ、ナツも怒るよね。
学校に着いてナツとアキに「今日、晩メシ一緒して」って頼んだら、二人はすぐに了承してくれたんだ。家には連絡すればいいからって。
じいサマのところで初めて会って以来ずっと、二人は俺の面倒を見てくれてる。嶺華に入る前も、入ってからも。
子供の頃は、何度も何度も二人の前で発作を起こしてた。ナツアキと遊んでて、一人迷子になって倒れたこともある。
あの時は二人とも、すごく落ち込んだんだ。自分たちが俺から目を離したからだって言って。アキなんか泣いちゃってたし、ナツも真っ青になってた。
だから二人は、俺が寂しがってるって察したら、なんとしても俺のそばにいようとしてくれる。どんなことより俺のことを、最優先にしてくれる。
……俺、やっぱり二人に甘えてたかも。
ワガママ言って二人を付き合わせてるのに、ずっと惺のこと考えてるなんて、あんまりにも勝手だよね……ナツ、まだ怒ってるかな。
飲み物のおかわりを貰って戻ってきたナツは、俺の顔を見るなり困ったような苦笑いを浮かべた。
「なんて顔してんだ、お前」
「…ごめん…」
「ったく…泣いてんじゃねーよ。ガキ」
そうとう情けない顔をしてたのかな。ナツがちょっと意地悪な笑みを浮かべて俺の頬を軽くつねると、反対側に座ってるアキが俺の腕を掴んで自分の方へ引っ張った。
「ナオは泣いてないよ。大体、ナオが泣きたくなるようなこと言ったのは、ナツでしょ」
俺を庇うアキを見て、ナツは肩を竦めて呆れてた。
「ほんとアキは直人に甘いよなあ…」
「そんな話、してないじゃないっ」
グラスを置いたナツはイスに座って、俺の顔を覗き込んだ。
「お前さ。惺さんとじいちゃんが仲いいの気にしてるけど。例えばオレが、お前とアキの仲に嫉妬してるって言ったら、どうするよ?」
「え…ええ?!」
思ってもないことを言われて、驚いた。アキもびっくりして、目を丸くしてる。
「どうするって…。俺とアキが仲良くたって、ナツが嫉妬するようなことじゃないじゃん。ナツアキにはナツアキだけで築いた時間があるんだし。そういうのと、俺たち三人で作ってきたものとは、別の話だよ。…だって俺、二人が仲良くてもナツアキが好きだもん」
「そうだろ」
俺の答えがわかってたみたいに、ナツはにやって笑って。すごく大人っぽい顔で、俺の顔を見た。
「惺さんとじいちゃんが仲いいのだって、お前と惺さんの十年には関係ない。…直人が惺さんを好きなこととは、全然別の話だろ。人のことなんか気にしたってしょうがねえよ。お前は自分の気持ちに自信持ってりゃいいんだ」