【君が待っているからA】 P:02


 何も話さなくったって、俺は惺を見つめていられるだけで、十分。

 惺は翻訳家をしてるから、いつも大体家にいてくれる。
 家に帰れば必ずそこにいてくれるっていうのはもちろん嬉しいけど、でもこうして、歩いてる惺をちょっと後ろから見てるのも好きなんだ。
 風が吹いてきて目を細める惺とか、眩しい日差しを見上げる惺とか。色んな表情を見られるのが嬉しい。
 昔はいっしょに買い物行くのとかも、楽しかったな。惺に手を引いてもらって歩くんだよ。十歳になるまではずっと、街を歩く時はそうしてもらってた。
 もちろん本当なら、手を引いて歩いてもらうような年齢じゃなかったし、たぶん惺以外の人がやったら、子供なりに恥ずかしくて、嫌だったろうと思うんだけど。でも幼い俺は、惺と手を繋ぐのが嬉しくて、全然恥ずかしいと思ってなかったんだ。
 車道が右側だったりすると、惺は必ず右側を歩いてくれる。その時には少し迷って、でも結局は仕方なさそうに、俺の右手を引いてくれるんだ。
 惺は俺の右手が好きじゃない。
 いや右手がっていうより、俺の右手にある星型の痣が。
 なのに
どうしても俺の右手を繋がなきゃならなかった惺は、困ってたと思うけど。俺はそうさせる自分が、惺の特別なのかなって思えて、嬉しかった。
 右手を繋いでもらうときだけが、惺が俺の痣に触れる瞬間だから。
 俺の右手のひらにある、星型の痣。
 惺の腰の辺りにもある、おそろいの痣。

「直人」
 惺に呼ばれ、俺は一歩だけ足を速めて隣に並んだ。
「なに?」
 少し惺を見下ろして尋ねる俺は、きっとやに下がってると思う。
 惺は前を向いてて、見てないけどね。
 ゆっくりと歩きながら手元の書類に目を落とした惺が、そのまま口を開いた。
「学部は決めているのか」
「大学?まだ決めてないんだけど…惺はどこがいいと思う?」
 聞いた俺の言葉に、惺はちらりと視線を上げた。眼鏡越しの瞳が、ひやりと冷たくて。俺は思わず身を竦めてしまう。
 ……しまった怒られる。
「僕に聞いてどうするんだ」
「う、うん」
「自分のやりたいことすら、決まっていないのか?」
「あの、でも…」
「言い訳など聞く気はないと、何度言わせる」
「…ごめんなさい」
 やっぱり……怒られた。

 言い訳をするな、っていうのは、惺が小さいときから繰り返し俺に言うセリフ。理由の説明はいいけど、言い訳はするなって。
 だってとか、でもとか。言おうとするだけでも、ぴしゃって叱られる。
 でも俺、ほんとにそういうの無いんだよね。将来何がしたいとか、どこへ行きたいとか。ナツが工学部に進むって聞いて、俺も理系だからそれでいいかなって思ってるんだけど。
 そんな風に言ったら、また「自分の意見はないのか」って怒られそうだ。
 どうしよう。
「あの…もうちょっと、考えてみる」
 しどろもどろにそう言うと、惺はちらりと視線を上げた。
「いつまでも時間があると思うなよ」
「うん。わかった」
 そうだよね。ずっと惺のお荷物でいるわけにはいかないんだ。俺だって、自分のお金で惺に何か出来るようになりたい。
 一度だけ、惺に許してもらってバイトしたんだ。去年の夏休みに。
 宿題とか七月のうちに全部終わっちゃって、ナツアキは両親と一緒に海外行ってて、暇でしょうがなくてね。いつも行ってるカフェに寄ったら、店長さんが「じゃあうちでバイトしない?」って声かけてくれて。
 夏休みの間だけってことでその店にバイトで入った俺は、貰ったバイト代で惺にプレゼント買ったんだ。
 深いブルーのマグカップ。惺はいつも仕事するとき、コーヒー飲むのにマグカップ使うから。
 そしたら惺は、こんなことのために使うくらいなら貯金でもしろって言ったけど、でもそれ、毎日ちゃんと使ってくれてるんだよ。今でも!嬉しかったなあ。
 ……そっか。
 これからもそんな惺を見ていたいと思ったら、ちゃんと将来のこととか考えて学部決めなきゃいけないんだ。就職する時とかに関係してくるんだよね、そういうの。
 えー……どうしよう。
 俺、今まで就きたい仕事とか、全然考えたことなかった。
「…ねえ、惺?」
「なんだ」
「惺はどうして、翻訳家になろうと思ったの?」
 身近にいるんだから、というだけで惺の話を聞いてみようと思った俺は、思わずそれが今まで聞いたことのなかった話だって気づいて、途端にわくわくしてきた。
 でも惺は、ため息をついて
「…誰のせいだと思っているんだ」
 って言うんだ。
「ごめん…俺のせいだね」
「わかってるんじゃないか」
 うん。わかってる。
 惺から離れたがらない俺のために、家で出来る仕事に就いてくれたんだってこと。
「そ、そうだけど。でもね、家で出来る仕事って、色々あるでしょ?どうして翻訳家だったのかなって」