【君が待っているからA】 P:06


 怒られるんじゃ、ないの?
 惺は全然、俺の顔を見てくれない。視線の先にあるのが、痣のある俺の右手だって気づいて。居心地悪くてきゅうっと握って隠してしまった。
 そしたら惺は何か、疲れたみたいな表情でため息を吐いたんだ。
「来年でお前は、高三だ」
「うん」
「大学部へ進んだら、僕の役目は終わりにしてもらう」
「……え?」
 なに?どういう、こと?
「高等部の卒業式が済んだら、この家を出て行けと言っているんだ。もう一人立ちしてもおかしくない歳だろう。…新しい住まいのことは、泰成に話して用意させる」
「待って、なに…どういうこと?」
 意味がわからないよ。
 ……何を言ってるの。
「話はそれだけだ。部屋に戻りなさい」
「それだけって…俺がここを、出るの?なんで?!なんでそんな、急に」
「急じゃない」
「惺!」
「僕はお前を、十年も手元に置いておくつもりじゃなかった。…もしお前が、どうしてもこの家にいたいと言うなら…そうしてもいい」
「惺…」
 惺の言葉に、少しだけほっとしたのに。
「その時は、僕がこの家を出て行く」
 きっぱり言い放って。
 惺は後ろを向いてしまった。

 言葉なんか、すぐには出てこなかった。俺はどんどん混乱し始めて、うまく考えられなくなってた。
 惺の言葉は、単に俺を社会に出そうとかそういう、前向きな提案じゃない。
 縁を切りたいって……そう言っているようにしか聞こえない。
「なんだよ…なに言ってんのか、全然わかんないよっ!どうして急にそんなこと言うの?!俺、なんかした?」
 言い縋る俺を振り返りもせずに、惺はため息をつく。
「お前はここにいたいのか?」
「当たり前だろ!」
「ならそうしたらいいと言っている」
「でも惺がいなくなっちゃったら、意味ないよ!…そんなの、俺一人にされて、どうすんだよ」
 一人でここにいるの?なんでそんなこと言うの……俺には惺の言ってることが、少しも理解できない。でも惺は、呆れたみたいに肩を竦めて「なんとかなるだろう」って言うんだ。
「お前はいつまで子供のつもりなんだ?今すぐの話じゃない。高等部を卒業した後の話だ」
「いつだって一緒だよっ」
「聞き分けの悪い子だな」
 なんだよ……なんでそんな、平然としてるの?当たり前のことみたいに言わないでよ。
 ぎゅうって痛くなる胸に手を当てて、俺はなんとか惺の言ってることを、惺の気持ちを理解しようとするんだけど。いま目の前にいる惺が、いなくなっちゃうかもしれないってことの衝撃が大きすぎて、言いたいこともまとまらないんだ。
「まだ一年以上ある。自分の行く末を自分で決めなさい。一人でここに住むのか、新しい場所で生活を始めるか。どちらでも好きにしたらいい」
「…ひとり、で?」
「ああ」
「惺は…惺はどうするの?俺が違うところに住んだら、ここにいてくれる?」
 毎日のように、会いに来ちゃうかもしれないけど。それでも惺がここにいてくれるなら、少しぐらいは落ち着いて考えられると思ったんだ。
 でも惺は、背を向けたままで俺を振り返った。睨むように、俺を見上げてる。
「僕がどこへ行こうと、お前には関係ないだろう?仕事の整理がついたら、それまでだ」
 その言葉に俺、力が抜けて膝をついてしまった。
「…仕事、辞めるってこと?」
「ああ」
 またそうやって、何でもないことのように言うんだね。
「そんな簡単に言わないでよ…」
「さほど面倒なことじゃない。僕はもともと、やりたくて仕事をしていたわけじゃないからな」
「だって!」
「お前を引き取ったなら、公に出来る肩書きがいるだろうと泰成に言われて、それで始めただけだ。いっそ、せいせいする」
 俺は惺のイスを掴んで、無理矢理反転させた。無表情の惺は、眼鏡越しの静かな視線で俺を見下ろしてる。
 ……本気、なんだ。
 なんの希望もない、覚悟してる顔。少し顔色が悪く見えるけど、それすら惺の本気を俺に確信させる。
 俺はそのままがっくり肩を落として、床を見つめてたけど。救いを求めるように、
惺を見上げた。
「なんでそんな…酷いこと言うの…」
「…………」
「十年がなんだよ。そんなの、まだたった十年じゃん…ねえ惺。考え直してよ…俺なんでもするからっ。惺の言うことなら、なんだって聞くから!」
「なら僕の話を理解しなさい」
「違うだろ!勝手に決めないでよ!」
「お前と話し合う気はない」
「惺!」
 惺の足に縋って首を振る俺に、惺は少しだけ口元を緩めた。
「ずっとこのままだなどと、本当に信じていたのか?」
「違う、そんなことないけど、でもっ」
「なら何年ならいいんだ?…何度も言うが、今すぐの話じゃない。再来年の三月までに、身の振り方を考えておけ」
「惺…惺っ」