笠原の家を出たら、いつの間にか雨が降ってた。でも俺は気にする余裕もなくて、ふらふら歩き出した。
途中で乗って行った自転車を忘れたって気づいたけど、取りに戻るのが嫌で、そのまま歩く。
雨に濡れるの、気持ちいい。
身体の外側がどんどん冷えてくから、中からちょっとずつ熱くなってきて、自分の体温があったかくて、俺を冷静にしてくれる。
なんか、妙に納得した気分だった。
だって惺が優しいのは、誰より俺が知ってる。その理由がじいサマの言う「傷」にあるんだったら、俺は感謝するべきで、文句を言う筋合いじゃない。
……ね、ほんと。惺は優しいよね。
十年前に見つけた子供は、死にかけて意味のわかんないこと言ってて、可哀相だって思ったんだろうな。
あの日の俺も、相当情けなかった。
惺を無理矢理抱いた日。
取り縋って捨てないでって、置いて行かれたら死んじゃうって。そんなこと言われたら、優しい惺には拒絶なんか出来なかったろう。
ああ、ほんと。
俺は馬鹿だ。
綺麗な惺に、勝手に熱上げて、勝手に思い込んで。どんな気持ちで惺が、足止めされてるかなんて、知らずに。
長かっただろうね、十年。
いつになったら大事な人を探しにいけるか、ずっと苛々してたんだろうな。
その上、命懸けで取り縋られて、身体を引き裂かれてる。なのにあんまりにも可哀相な俺を放り出せず、惺はまだ茶番に付き合ってくれる気でいるんだ。
立ち止まったら、笑えてきた。
ははは……まったく。惺ってば、見かけによらずお人好しだ。そんなだから、馬鹿な子供に付け入られて苦しむことになる。
辛かったね。
可哀相な惺。
真っ暗な空を見上げてたら、雨に打たれてんだか泣いてんだか、わからなくなるよ。どっちでもいいんだけど。
意識を飛ばして、俺に甘えるとき、誰を思い浮かべてた?
探したいと思ってる人なのかな。その人には、あんな風に甘えるんだ。離さないでってしがみついて、一人にしないでって泣いて。
俺が抱いてちゃいけないんだね。
だって惺が求めてるのは、俺じゃない。
ずるずる足を引きずって歩いてたら、誰かにぶつかって怒鳴られた。何を言われてるのかわからなくて、ぼうっと突っ立ってたら、いきなり殴られて。
どっかの家の壁にぶつかって、蹲った俺から、その人は離れて行ったけど。
切れたのかな?口のとこ、痛い。
……もっと殴ってもいいのに。
季節外れの激しい雨にかき消されるってわかってて、俺は声を上げて泣いてた。
もっと殴ればいい。
殴られることなんか、慣れてる。
ほんの十年、優しい人の元に庇われてただけ。
俺はもともと、いらない存在だった。
吹っ飛ぶくらい殴られたこともあるし、タバコの火を押し付けられたこともある。無理矢理お酒を飲まされて病院に運ばれたり、車の中に放置されて救急車呼ばれたり。
世間で虐待と呼ばれるようなことは、大抵されてきた。欲しくもない子供を授かった両親にとって、俺はストレスのはけ口でしかなかったんだろう。
惺だって俺のこと、いらなかったのに。
でもいつも、優しくしてもらった。
これ以上望むのは、我がままだ。惺は一度も俺に手を上げなかった。理不尽なことで叱られたこともない。
……もうやめようって、諦めが鈍い色で心を塗りつぶしていく。
惺の優しさに、これ以上甘えちゃダメだ。
十年もの間、惺は俺に縛られていた。俺という足枷に囚われ続けていたんだ。
これ以上はダメだよ……一刻も早く、惺を俺から、解放してあげないと。
俺の想いなんて、もうどうでもいい。
ごめん。
ごめんね、惺。
ゆっくり立ち上がって、家に向かい歩き出す。今まで惺が待っている家に帰ることの、その大きな幸福に甘えてた。
いい加減、目を覚まさないと。
ちゃんと自分を見なきゃ。
俺は元から、誰の愛も受けずに生まれてきた。一人が怖いなんて、自惚れてる。
だってずっと一人だった。愛されたいなんて、思わなきゃいい。
それだけでいいんだ。
俺がちゃんと、理解できたら。
惺は幸せになるんだから。
どれくらい歩いてたのかな。
じいサマの屋敷から家まで、ゆっくり歩いても二時間はかからない距離なのに。
雨のせいもあって、いつの間にか周囲が真っ暗だ。
マンションのエントランスにある時計を見上げると、もう夜の八時を指してしまっていた。
家に入って、廊下を抜けたら、惺が一人でぼうっとソファーに座ってた。明かりもつけず、何もないところを見つめて。
ねえ、惺?
今までもそうやって、時が過ぎるのを待ってたの?
俺がいなくなるの、じっと耐えて待ってたんだね。
「ごめんね…」