【君が待っているからB】 P:07


 
 
 
 
 
 笠原の家を出たら、いつの間にか雨が降ってた。でも俺は気にする余裕もなくて、ふらふら歩き出した。

 途中で乗って行った自転車を忘れたって気づいたけど、取りに戻るのが嫌で、そのまま歩く。
 雨に濡れるの、気持ちいい。
 身体の外側がどんどん冷えてくから、中からちょっとずつ熱くなってきて、自分の体温があったかくて、俺を冷静にしてくれる。
 なんか、妙に納得した気分だった。
 だって惺が優しいのは、誰より俺が知ってる。その理由がじいサマの言う「傷」にあるんだったら、俺は感謝するべきで、文句を言う筋合いじゃない。

 ……ね、ほんと。惺は優しいよね。
 十年前に見つけた子供は、死にかけて意味のわかんないこと言ってて、可哀相だって思ったんだろうな。
 あの日の俺も、相当情けなかった。
 惺を無理矢理抱いた日。
 取り縋って捨てないでって、置いて行かれたら死んじゃうって。そんなこと言われたら、優しい惺には拒絶なんか出来なかったろう。

 ああ、ほんと。
 俺は馬鹿だ。
 綺麗な惺に、勝手に熱上げて、勝手に思い込んで。どんな気持ちで惺が、足止めされてるかなんて、知らずに。
 長かっただろうね、十年。
 いつになったら大事な人を探しにいけるか、ずっと苛々してたんだろうな。
 その上、命懸けで取り縋られて、身体を引き裂かれてる。なのにあんまりにも可哀相な俺を放り出せず、惺はまだ茶番に付き合ってくれる気でいるんだ。
 立ち止まったら、笑えてきた。
 ははは……まったく。惺ってば、見かけによらずお人好しだ。そんなだから、馬鹿な子供に付け入られて苦しむことになる。
 辛かったね。
 可哀相な惺。
 真っ暗な空を見上げてたら、雨に打たれてんだか泣いてんだか、わからなくなるよ。どっちでもいいんだけど。

 意識を飛ばして、俺に甘えるとき、誰を思い浮かべてた?
 探したいと思ってる人なのかな。その人には、あんな風に甘えるんだ。離さないでってしがみついて、一人にしないでって泣いて。
 俺が抱いてちゃいけないんだね。
 だって惺が求めてるのは、俺じゃない。

 ずるずる足を引きずって歩いてたら、誰かにぶつかって怒鳴られた。何を言われてるのかわからなくて、ぼうっと突っ立ってたら、いきなり殴られて。
 どっかの家の壁にぶつかって、蹲った俺から、その人は離れて行ったけど。
 切れたのかな?口のとこ、痛い。
 ……もっと殴ってもいいのに。
 季節外れの激しい雨にかき消されるってわかってて、俺は声を上げて泣いてた。

 もっと殴ればいい。
 殴られることなんか、慣れてる。
 ほんの十年、優しい人の元に庇われてただけ。
 俺はもともと、いらない存在だった。
 吹っ飛ぶくらい殴られたこともあるし、タバコの火を押し付けられたこともある。無理矢理お酒を飲まされて病院に運ばれたり、車の中に放置されて救急車呼ばれたり。
 世間で虐待と呼ばれるようなことは、大抵されてきた。欲しくもない子供を授かった両親にとって、俺はストレスのはけ口でしかなかったんだろう。
 惺だって俺のこと、いらなかったのに。
 でもいつも、優しくしてもらった。
 これ以上望むのは、我がままだ。惺は一度も俺に手を上げなかった。理不尽なことで叱られたこともない。
 ……もうやめようって、諦めが鈍い色で心を塗りつぶしていく。
 惺の優しさに、これ以上甘えちゃダメだ。
 十年もの間、惺は俺に縛られていた。俺という足枷に囚われ続けていたんだ。
 これ以上はダメだよ……一刻も早く、惺を俺から、解放してあげないと。
 俺の想いなんて、もうどうでもいい。

 ごめん。
 ごめんね、惺。

 ゆっくり立ち上がって、家に向かい歩き出す。今まで惺が待っている家に帰ることの、その大きな幸福に甘えてた。
 いい加減、目を覚まさないと。
 ちゃんと自分を見なきゃ。
 俺は元から、誰の愛も受けずに生まれてきた。一人が怖いなんて、自惚れてる。
 だってずっと一人だった。愛されたいなんて、思わなきゃいい。
 それだけでいいんだ。
 俺がちゃんと、理解できたら。
 惺は幸せになるんだから。
 
 
 
 どれくらい歩いてたのかな。
 じいサマの屋敷から家まで、ゆっくり歩いても二時間はかからない距離なのに。
 雨のせいもあって、いつの間にか周囲が真っ暗だ。
 マンションのエントランスにある時計を見上げると、もう夜の八時を指してしまっていた。
 家に入って、廊下を抜けたら、惺が一人でぼうっとソファーに座ってた。明かりもつけず、何もないところを見つめて。
 ねえ、惺?
 今までもそうやって、時が過ぎるのを待ってたの?
 俺がいなくなるの、じっと耐えて待ってたんだね。
「ごめんね…」