笠原の家にはナツアキが連絡を入れておいてくれたみたいで、タクシーが着くと屋敷で働いている人が、俺を迎えに出ていてくれた。一人のひとがお金払ってる間に、もう一人のひとが俺を案内してくれる。
前に来たときは、どうしていいかわからなくて、なにを聞きたいのかさえ自分でもはっきりせず、躊躇いがちに歩いた広い廊下。でも今日は、早くじいサマに会いたいと思って歩いてた。
あの時と同じ書斎の大きな扉が俺を待ってたけど、今度は自分でそこを開けて、じいサマの顔を見たんだ。
今日は下を向かないでおこうって、それだけは決めてた。
だってそうしないと、俺のこと励まして送り出してくれたナツアキに、失礼だもんね。
「…懲りん奴だの」
ため息混じりにいわれても、俺は怯まなかった。ゆっくりと奥のデスクにいるじいサマのところまで歩いていく。
「俺ね、じいサマ。あれからずっと考えてた。俺が惺を不幸にしてるなら、早く離れないと。迷惑かけてる俺が惺の足枷なら、楽にしてあげなきゃいけないんだって。今でもその気持ちに、変わりはないよ」
デスクを挟んで、じいサマと向き合った俺は、立ったままじいサマの厳しい視線を受ける。
なんてことないよ。
どんな表情で俺を見ていても、ここにいるのは俺を可愛がってくれたじいサマなんだもん。
そんなの当たり前のことだけど、ナツとアキが思い出させてくれたんだ。
「なんでも出来るって、思ったよ。惺のためなら俺、何だって出来る。自分の心の全部を占めてるのは、惺を好きだって気持ちだけだ。これだけは誰にも負けない」
「大きく出たもんだ」
「この気持ちが愛って言うのかどうか、俺にはわからない。一緒にいたいと思うし、惺を欲しいと思うよ。でも俺、惺が笑ってくれる為だったら自分がどうなろうと、構わないんだ」
じいサマは俺を見据えたまま、話を聞いてくれた。
「心の強い男になりなさいって、そう言って惺は俺を育ててくれた。生きる道は自分で探すんだって、俺を導いてくれたから。なら俺は、惺のために生きたいんだ」
じっと蹲って、惺が離れていくことに怯えてるだけだったけど。
十年間、俺と惺の間に培われたはずのものを忘れて、与えてもらった全部を無かったことにして、あの暗いアパートで待ってた俺に戻ろうとしてたのは、間違いだ。
俺はもう、あの時の子供じゃない。
この十年で少しでも強くなったなら、それは一番傍にいた惺が、一緒に育ってくれたナツアキが、俺を可愛がってくれたじいサマが、俺っていう人間に関わってくれたおかげ。
自分の中に感謝の気持ちがあると思うなら、応えていられるように、立ち止まっちゃいけないんだよね。
「惺のために、生きるよ」
俺の言葉を聞いて、じいサマは静かに目を閉じた。
「じいサマ教えて。惺はどうしたら幸せになるの。俺が何をしたら、惺に笑顔をあげられるの?」
じいサマの答えは、俺の出した結論と同じかもしれない。俺っていう存在を惺の前から遠ざけることなのかも。
でも、構わないんだ。
どこにいたって俺は、惺のためにだけ生きて行くだけだから。
じいサマはゆっくり息を吐くと、疲れたみたいな笑顔を見せて「十年か」と呟いていた。
「随分と、生意気なことを言うようになったもんだの」
「…………」
「逆らえん運命というのは、いつになっても勝手なもんだ…直人」
直じゃなく、直人って。初めてじいサマにちゃんと名前を呼んでもらって、俺は息を詰める。
視線が合うとじいサマは、すごくあったかい笑顔で俺を見てくれた。
俺、知ってるよ。
じいサマのこの顔。
惺に俺のことを話すとき、俺にじゃなく惺に向かって俺を褒めてくれるとき、いつもじいサマはこんな顔で笑ってた。
「どんな真実も疑わず、真摯に受け止められるか?」
「大丈夫。俺は信じてるから」
「ん?」
「じいサマが望むものは、俺と同じなんだって」
「…そうか」
「惺の幸せを願うってことに関して、気持ちは負けないつもりだけど。年季では負けると思ってる」
「ははは、確かにな。わしも随分と歳をとったもんだ」
ふと遠いところを見るような目になったじいサマは、軽く頭を振ると、引き出しを開けて小さな額を取り出した。
前に来たとき、大事そうに見つめてた額だ。
「見てごらん」
裏返しにそっと押しやってくれた額を、手にとってみた。
「いいの?大事なものなんでしょ」
「構わんよ」
裏返しだった額をひっくり返す。中に入っていたのは白黒の古い写真。
男の人が二人映ってて、片方の人を俺は良く知ってる。
「惺…だよね?」
不機嫌そうに腕を組んで、横を向いてるけど。それは確かに惺の姿だった。
「…隣の人、誰?」