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駐輪場に自転車を止めた俺は、急いで部屋へ上がって、ドアの前で呼吸を整え、静かに玄関を開けた。
明るい室内はしんとしてる。
廊下を抜けてリビングにたどり着けば、そこにはソファーに座ったまま、じっと何もないところを見つめてる惺が居た。
惺は、感情の見えない顔で指を組んで、視線を落としてる。
無表情の顔に、気持ちなんか見えないけど。でもその細い肩が寂しそうで、きゅうっと胸がつまった。
ねえ、惺?
惺はどれくらい長い間、そんな風に孤独をやり過ごして生きてきたの?
そう思ったら、たまらなくて。
俺が帰って来たことにも気づかず、ぼうっとしてる惺を、後ろから抱きしめてた。
「…ただいま」
「っ!直人?!」
驚かせてごめんね。
誰もいない部屋に、たった一人でいる惺の姿を見たら、声をかけるよりも先に触れたくなったんだ。
「…今日はバイトで、遅くなるんじゃなかったのか…?」
「うん。そのはずだったんだけど…早く惺に会いたかったから、バイト休んじゃった」
バイト先には笠原の家を出てからすぐに電話して、休ませてもらった。
そしたら「千夏(チナツ)くんから体調崩して学校を早退したって連絡あったよ」って言われたんだ。ナツは店の常連だし、店長とも面識があるから。
ほんとナツって手回しが早い。俺、助けてもらってばっかりだ。
早めに連絡があったから、もう別の人を頼んだって。お大事にって言われて、ちょっと申し訳なかったけど。こんな気持ちで仕事なんか出来るはずないし、店長の言葉に甘えることにした。
俺の言葉を聞いて、惺は僅かに苦い顔をしたみたい。
「…そんな軽い気持ちで働いているなら、辞めてしまいなさい。店にも迷惑だ」
厳しい言葉。
すごく惺らしくて、嬉しいな。
「今日だけだよ」
甘えた声で言うと、惺の声が少し低くなる。
「仕事というものに対する、姿勢のことを言ってるんだ」
「ごめんなさい」
こんな風に甘えたことを言ったら、惺を怒らせるってわかってたから。俺は素直に謝った。
「僕に謝ってどうする」
「うん。でも本当に、こんな勝手なことして人に迷惑をかけるのは…今日だけ」
本当に、今日だけだから。
俺の我がままを許してよ惺……。
俺はちゃんと、惺が今まで教えてくれたこと、わかってる。
人に迷惑を掛けちゃいけないことも、一度引き受けたことは簡単に放り出したりしちゃいけないことも。
だから今日だけ、許して?
抱きしめてる腕にぎゅうって力を入れたら、惺は固まっちゃったみたいに動かなくなる。振り払うことも、受け入れてくれることもない。
それはきっと、惺が自分を許すことも拒絶することも出来ないからなんだろう。
その、じいサマの言う「運命」ってやつから。
「ねえ…惺」
「…………」
「好きだよ…大好き」
囁くと、惺は躊躇いがちに俺の腕に手をかけてくれた。
指先、震えてる。
長いこと待たせてごめんね。
「愛してるって、言ってもいいのかな?愛されたことのない子供でも、そういうのわかると思う?」
「直人…」
「どこにも行かないでって、小さいときはずっとそう思ってて。俺は馬鹿だから、成長しても相変わらず惺に離れて行って欲しくなくて、自分のことばっかり考えてた。…でも今は、違うよ」
惺を縛ってることが、惺を独占することには繋がらない。
惺が幸せでいなきゃ、何の意味もないって、ようやくわかったよ。
「僕が、どこへ行ってもいいと?」
嘲るような言葉とは裏腹に、惺の手が強く俺の腕を掴んでる。冷たい指先が、縋りついてるみたい。
俺は掴まれていない方の手で、惺の髪を撫でたんだけど……その時初めて気づいたんだ。
惺いま、自分が俺の右腕を掴んでるってわかってる?
初めてだね。惺が自分から、そんな風に自然と俺の右腕を取ったの。
「今だって、どこへも行かないで欲しい」
「矛盾したことを」
「うん…ごめんね。俺、頭良くないから、どう言えばちゃんと惺に伝わるのか、わからないんだけど」
俺の腕を掴む惺の手、左手でそっと包んだら、惺はやっと自分が痣のある右手に触れてるって気付いたみたいで、びくっと肩を震わせ、慌てたように手を離した。
「痣のあるこの手には…触れたくない?」
「…………」
何も言ってくれないんだね。
この痣に関することは、絶対に口を開かないんだ。
俺は腕を解いて、惺の正面に座った。床に膝をついて惺を見上げる。
手を伸ばした俺は、惺がかけている眼鏡を外した。似合ってるんだけど、今は何にも遮られたくなかったから。
俺が眼鏡にゆっくり手を掛け、外してる間、惺は静かに目を閉じていてくれた。後ろのテーブルに眼鏡をおいて、もう一度惺を見上げる。