【君が待っているからE】 P:06


 惺が立ち止まっていたのは、重いガラスの扉を開いたまま、押さえてたから。その横を、お隣の奥さんが会釈をしながら通り抜けていた。
「こんばんは」
 にっこり微笑んで挨拶を返してくれたのは、俺たちの隣の部屋に住んでる、弁護士さんの奥さん。大きなお腹を抱えて、惺にお礼を言いながら歩いてる。
 ドアを開けてあげてた惺の隣に並んで、ゆっくりしか歩けないでいる彼女を一緒に見送った。
「大変そうだね」
 そんな毎日会う人じゃないけど、だからこそ、どんどん大きくなっていくお腹が不思議な感じ。
 ぼんやり呟いた言葉は、何気ない感想だったんだけど。惺はちょっと複雑な顔をして俺を見上げた。
「…直人」
「ん?」
「ちょっと待ってなさい」
 言うや否や、惺は早足で奥さんに近寄っていって、何かを話しかけてる。
 押さえるものの無くなった扉に遮られ、俺には二人の会話が聞こえない。
 用でもあったのかな?
 言われたとおり、おとなしく待っていた俺の視線の先で、惺がいきなり着ていたコートを脱ぎだした。……何してんの?
 でも惺の意図は、すぐにわかったよ。
 マンションの入り口で何かを待つつもりだったらしい奥さんのために、傍の植え込みのところの煉瓦に自分のコートを敷いて、そこへ座るよう勧めてるみたいだ。やっぱり惺は優しいよね。
 それにしても珍しいな……惺ってあんまり、他人に関わりたがらないのに。

 遠慮して断ってる様子の奥さんは、惺の勧めに何度もお礼を言いながら、そこへ腰掛けた。そしたら惺が、彼女の隣から俺を手招きして呼んでる。
「惺、どうしたの?」
 扉を開けて近づいてく俺は、自分の着ていたブルゾンを脱いで惺に差し出した。惺は風邪なんか引かないって、もう知ってるけど。でも気になるんだもん。
 惺は俺の差し出したブルゾンを、何も言わずに受け取って、着てくれる。
 肩に羽織ってくれただけなんだけど、俺のじゃサイズが大きくて、なんかそのアンバランスさを見てるのが照れくさい。
「誰か待ってるんですか?」
 尋ねた俺に答えをくれたのは惺だった。
「旦那さんが車を回して来られるそうだ」
「ああ、そうなんだ」
 頷く俺の背中を、惺が優しく押してる。
「え?なに…?」
「彼女のお腹、触ってごらん」
 言われて、俺は目を見開いた。
「ええっ?!む、ムリだよ!だってっ」
 ぶんぶん首を振る。
 そんなの無理だよ!
 だって何かあったらと思うと怖いし、こういうのってきっと、他人が触ったりしちゃダメだよ!惺、何言ってんの?!
 でも惺は「いいから」って言うし、あとずさる俺の手を、当の奥さんが柔らかく握ったんだ。
「いいのよ、直人君」
「い、いやでも…」
 惺から何かを聞かされているらしい奥さんに微笑まれ、俺は情けなくうな垂れた。
 ……触れないよ。
 新しく生まれてくる命。
 俺とは違う、暖かな愛情の中で迎えられる命なのに。
 俺なんかが触ったら、なんだか俺の不幸まで移しちゃいそうで怖いんだ。
 困り果てる俺のことを見上げて、奥さんは「本当にいいのよ」と囁いてくれた。
「だって…」
「ねえ、直人君。赤ちゃんはね、お腹にいる時、たくさんの人から撫でてもらうと、幸せな子になるんですって。だから、お願い。ね?」
「そんな…」
「ゆっくり触れるだけだ。何が起こるはずも無い。…お前が考えている不安はわかってるから」
 惺はゆっくり俺の背中を撫でると、躊躇いで動かなくなってる俺の右手を取ってくれた。……まだ包帯を巻いたままの、痣のある右手。
 そして、そっと導いていく。
 ……いいの?
 本当に、俺なんかが触っても大丈夫?
 怖くて仕方なくて惺を見つめると、惺は力強く頷いてくれた。ちゃんとわかってるからって、その瞳が言ってる。
 だから俺は観念して、惺に自分の手を任せることにしたんだ。

 そっと、手が触れて。
 包帯越し、服の上からでもわかるくらい、固く張ったお腹。思ったよりずっと手ごたえのあるそこに驚いた。
 なんか、もっとふにゃふにゃ柔らかいイメージがあったんだけど。全然違う。
 そして俺の手の平がぴたりと張り付いたとき、内側から力強く跳ねるような感触が伝わってきたんだ。
「う、わっ」
 驚いて声を上げてしまったけど、でも俺は手を離せなかった。
 だって……反発して、拒絶されてる感じじゃなかったから。まるで何かが俺を確かめたみたいな、僅かな衝撃。
「ふふ…喜んでるみたい」
 奥さんに言われて、俺は呆然と顔を上げた。
「よろ、こんでる…ん、ですか?」
「そうよ。この人は誰って。そう言ってるみたいじゃない?生まれてきたら遊んであげてね、直人君」
「それは…もちろん。俺なんかで良かったら…」
「ありがとう」
 奥さんが微笑みかけてくれたとき、一台の車が近づいてきた。