真っ暗な玄関がちょっと冷たいように感じたけど、惺がすぐ明かりをつけてくれたから、なんだかほっとした。
俺たちはずっと、手を繋いだまま。
緩やかに手を引かれ、俺は子供みたいに惺に連れられたまま、廊下を歩いてた。
そのまま惺の部屋へ連れて行かれて。ベッドに座らされる。
ようやく解いた手が、熱い。
「…初めてだろう?」
肩にかけていた俺のブルゾンと、奥さんに貸していた惺のコートを、一緒にハンガーにかけて。戻ってきた惺を見上げながら、俺はぼんやり頷いた。
初めてだよ……妊婦さんに、触れたのなんて。
街中で見かけることはあっても、身近な人が妊娠したことはないし、隣の奥さんだって今まで、挨拶を交わすくらいの間柄でしかなかったんだから。
でも彼女は、あんなに優しく微笑んで。大切な赤ちゃんのいるお腹に、触らせてくれた。変な言い方かもしれないけど、ここにヒトがいるんだって……そう感じた衝撃は、けっこう大きくて。
惺は俺の前に立って、俺の頬を包むと、触れ合わせるだけのキスをくれる。
「直人。…僕をどう思ってるのか、言ってみろ」
「え…ああ、好きだよ惺」
いつも通り、答えたんだけど。
「そうじゃない」
ゆっくり首を振って、惺はもう一度口付けてくれる。なんだかやり直しなさいって言ってるみたいに。
「惺?」
「違う言葉があるだろう?言ってごらん」
問いかけられて、俺は惺の目をまっすぐに見つめた。黒い瞳の中に、俺の姿が映ってる。
「…愛してるよ…」
囁いて、すぐ。惺は両手で包んでいた俺の頬を、やわらかくつねった。
「またそういう顔をする」
「え…?」
「お前はいつも、僕にその言葉を言ったあと、眉を寄せるだろう?」
「そう…かな…」
自分じゃ全然、気づいてなかったんだけど。でも惺は俺の眉間に唇をよせた。
「ここに皺を寄せて、不安そうな顔をするんだよ。気づいていなかったか?」
「…うん」
うな垂れる俺の頭を、何度も撫でてくれる惺は、ふうっと溜め息をついた。
「その言葉に、自信がないんだろう?」
そんな風に言われて、俺は慌てて顔を上げた。
「違うよっ!そんなことない。俺はっ!」
「わかってる」
「俺はちゃんと…っ」
反論しようとする俺の唇に、指を押し当てて。惺が優しく微笑みかけてくれた。
「わかってるから。言わなくていい」
「…………」
「気持ちに自信がないんじゃなく、言葉に自信がない。そうだろう?…誰にも愛されたことが無いと、お前はずっとそう言っていたね」
ゆったり髪を撫でてくれて、額に口付けてくれて。惺が穏やかな言葉で、俺の気持ちをわかってくれる。
泣きたくなりながら、頷いた。
―――あんた邪魔なのよ!アタシが生きるのに邪魔なのよ!なんで生まれたの?アタシはあんたさえいなかったら、もっと自由だったのに!!
俺の中に、古い記憶が蘇る。
母さんが俺を殴るときの言葉は、いつも同じだった。きっかけが違っていても、最後に怒鳴る言葉はいつも同じ。
俺が邪魔だって。
俺なんかいらないって。
わかっていても、俺は母さんに愛されたくて必死で、母さんの後ろ姿ばっかり追いかけてた。
でも彼女にとって、俺は大切なものにはなれなくて……捨てられて。
そんな俺には「愛している」という言葉がわからない。
自分の中に溢れかえるその言葉。ただ惺のためだけに、自分の中に生まれては降り積もっていく言葉。
惺を愛してるんだと思うとき、同時に何かが「それは間違いだ」と警鐘を鳴らすんだ。お前にその言葉の、本当の意味がわかるのか?って。
俺にはけして、答えることが出来ない。
だって俺は、愛されたことがない。
「…お前は、間違ってる」
「惺?」
呆然と顔を上げたら、痛いくらいに真剣な眼差しで、惺が俺を見つめていた。
「誰にも愛されなかったなんて、そんなことはない」
だって惺、俺は……
「なあ、直人。さっき彼女を見たお前は、なんと言った?」
問われた俺は、思い返していた。惺に重い扉を開けてもらって、頭を下げながら歩いていた隣の奥さん。
「…大変そうだなって…」
自分の身体なのに、重そうで。ゆっくりしか歩けないでいる奥さんを見たら、単純に大変そうだなって思ったから。
惺は俺の答えに頷いて、頭を撫でてくれた。
「そうだな。…彼女たちは我が子を生むために、数々の試練を強いられる。つわりに苦しみ、母親になるという覚悟に苦しみ、無事に出産できるかという不安に苛まれ。自身の体重が、一年足らずの間に十キロ近く増え、急激に身体が重くなっていく。ただ普通に日常を送ることさえ、苦労するようになるんだ」
「…本当に大変なんだね」