いつだって我侭な晃だから、兄は「またか」とうんざりした顔を見せていたけど。晃の言葉が兄を想ってのものだということは、もうわかりきっていた。きっと、兄にもわかっていただろう。
だから朔も賛同するように「いいじゃないですか」というのだが、心配性の兄はけして頷かない。
馬鹿なことを言うなと。
どれだけ迷惑を掛けることになるのか、考えろと。
本当は誰より彼女の傍に居たかったはずの兄が言うのだから、もう二人の弟には黙ることしか出来なかった。
誰を愛しても、それが運命の相手ではなのなら、必ず見送らなければならない。
――わかっているだろう?
兄が、囁くから。
朔はどんなに自分が後ろ髪を引かれる思いでいても、旅立ちの日を決める兄に逆らわなかった。
兄の複雑な心を思い遣って、拗ねてふくれる晃を宥め、旅支度を整える。滞在はいつも、ひと月足らずだ。
兄は彼女の立場を思い遣って、身を裂くような別れの痛みに耐えている。なら自分が感じている寂しさなど、ただのわがままだ。そう、朔は思っていた。
しかし、兄の抱えていた痛みは、朔が想像するほど単純なものではなかったのだ。
最後に会った時、彼女は床から起き上がることも出来ないほど年老いていて。漠然とした予感だったが、もう会えないかも知れないということに気付きつつ、三人は彼女の元を離れた。
十年を待たずして、再度訪れた彼女の屋敷。かなり離れた地にいたにも関わらす、なぜか急に、兄が彼女の元へ行くと言い出したのだ。
主のいない、しんと静まり返った大きな屋敷の奥。顔見知りの執事は、朔たちを待っていてくれた。年老いて、杖を使わなければ立ってもいられないのに。彼は気丈な様子で自分達に向き合ってくれたのだ。
――ご主人様は、先月亡くなられました。最後まであなた方のことを気になされ、この屋敷をあなた方に残されています。売却しても構いません。お住まいになっても結構です。ご主人様はこの屋敷が、あなたがたを一時でも守ってくれるようにと、仰っておられました。
ゆっくり伝えられた言葉。朔と晃は、涙を零す前に、兄の絶叫を聞いた。
悲しかったのも、残念だと思ったのも事実だ。我知らず涙が零れたし、朔の記憶は彼女の笑顔を何枚も何枚も、並んだ肖像画を見るかのように蘇らせていた。
晃が朔に縋って、兄を見つめていた。朔も晃を支え、蹲って悲しんでいる兄を見ていた。
二人がどれほど愛し合っていたかを、見せつけられている気がした。爪が剥がれそうなほど敷物を握り締め、肩を震わせる兄。黙って見つめていた朔は、晃がびくりと身体を震わせたのに驚いて、腕の中の弟を見下ろした。
――晃?
晃は、朔の腕の中をぱっと飛び出して走り出していた。何に気付いたのか、その表情はいつになく強張っていて。兄を気にしつつも、朔が後を追いかける。
追いついたのは、屋敷の裏。ここに代々の墓が在ることは、かつて彼女から聞かされ、朔も知っていた。
真新しい墓の前に立ち竦んでいた晃は、何かにとり憑かれたかのように、土を掘り始める。彼女の墓を暴こうとしていることに気づき、慌てて朔は晃を止めようとしたけど。痛いくらいの強い力で振り払われた。
朔を見上げる晃は、憤りと悲しみを混ぜ合わせたような顔をしていた。この子はいつも明るく笑っているが、その実とても繊細で、兄弟の中で最も鋭い感性をしている。どんなに朔や兄が覆い隠している痛みでも、黙って触れてくる。涙を浮かべ、辛いよ、と代わりに囁いてくれる。
朔は黙って晃を見ていた。
最後まで止めなかったのは、朔自身も自覚のない心の奥深いところで、わかっていたからかもしれない。
彼女の墓に、どんな残酷な事実が埋まっているかを。
日が傾いて、夕闇が迫っていた。真っ青な顔で墓を掘り返していた弟が、棺を開けた。動きを止めた晃は、ぶるぶると唇を震わせ、棺の中を見ていた。朔も静かに近寄ると、そこで待っていた真実に、目を奪われ身を震わせた。
晃の視線の先には、生前の明るい表情など想像もできないほど朽ちかけている、彼女の遺体があって。