……そこだけ腐敗していないのが不思議なくらいきれいな胸元に、兄と同じ星の形をした痣が、朔たちを見上げていた。
晃の怒りは凄まじかった。
いくら怪我などたちまちに治ってしまう身の上とはいえ、兄に振るう暴力は直視できないくらいに酷かった。
――なんなんだよ!何してんの?!
朔は泣き叫ぶ晃の身体を抱き締め、黙って殴られていた兄を見つめる。
わかっていた。
兄が朔や晃のことを思ってしたのだということ。責任感の強い彼は自分だけ解放されることを許せなくて、あえて自分の相手を手放したのだ。……もう一度会える保証など、どこにもないのに。
朔と晃は、兄が大好きだ。
彼は二人が、誰よりも愛している人。
時に厳しく、時に優しく、自分達を導き守ってくれた人。
兄の愛を疑ったことなどない。自分と弟に向けてくれる慈愛は、海よりも深く、空よりも尊かった。
だからこそ朔は、自分が同じ立場だったらと考えて、震えたのだ。同じことを繰り返してしまうだろう自分に、怯えた。
自分達は、互いを思い遣りすぎる。
それはいつか必ず、恐ろしいほど大きな鋭い刃となって、三人を襲うだろう。
晃が解放されて、老いていったら?兄も解放されて、一人になったら?二人を恨まずに生きていけるか?愛する兄弟を憎むなんて、そんな自分を許せるわけがない。
いま答えを出さなければならないのなら、それは次兄である朔の役目だ。
――兄さん、ここで別れましょう…
もっと落ち着いた声で言いたかったのに、朔は涙を止めることも、震える声を抑えることも出来なかった。
屋敷の一室でそう言い出した朔に、他の言葉など浮かばない。
晃が悔しそうに顔を上げて、自分を見ていた。兄は驚愕に目を見開き、信じ難いとばかりに首を振っていた。馬鹿なことを言うなと、肩を揺すられたけど。朔は答えなかったのだ。たぶん、本気で兄の言葉に逆らったのは、あのときが最初で最後。
――オレもそれがいいと思う。
――晃!
――永遠に三人でさ迷うのかよ!そんなの絶対イヤだ!
――待て、ダメだ!
――オレ達といたら、アンタずっと幸せになんないじゃん!そんなことしてもらうために、一緒に呪われたんじゃないよ!
晃は潔く自分の荷物を取り上げ、足早に部屋を出て行った。崩れ落ちる兄の肩を優しく叩いて、朔も自分の荷物を持ち上げた。
――僕は、間違っていたのか…?
辛そうに呟いた兄の声が、まだ忘れられない。朔は振り返ってやれなかった。
――私も兄さんと同じ立場だったら、同じようにしたと思います。そうしてその時はきっと、あなたが私に同じことを言ったでしょう?…兄さん…あなたが幸せになることを、私と晃は、願って止まないんです…
そんな言葉で少しでも兄が救われたのかどうか、朔にはわからない。初めて聞く兄の嗚咽に背を向けたまま、扉を閉めてしまったのだから。
柔和な朔は、昔から晃の母親代わりだった。厳しい兄が父親のように晃を叱るとき、母親のように宥めてやるのは朔の役目。
淋しがり屋で可愛い晃は、いつも周囲に明るい笑顔を振りまいていた。二十を数える前に時を止められ、しかも年齢よりなお幼く見えて、朔と兄の庇護心を駆り立てる弟。
あの子を一人で旅立たせたことは、今でも朔を後悔させる。どこかで泣いていないだろうかと不安にさせる。でも、探そうとはしなかった。
幸せを求めて、旅立ったのだから。
朔が晃を探して、見つけたとき。彼が自分の年を越え、たった一人の誰かと生きていたら、変わらぬ朔を見てどんなに悲しむだろう。兄も、自分も。互いを思い遣るなら、自分達はもう会わないほうがいい。
岩牢の中で溜息を漏らした朔は、人の気配にゆっくりと顔を上げる。
いつもより遅い時間ではあったが、こちらに向かってくる足音は違えようもなく、たった一人の男を思い描かせた。