【君に逢いたくて〜壱〜】 P:06


 朔はゆっくり立ち上がった。
 衿をぎゅうっと握り締め、視線を落として男を待つ。
 朔の命が時間を刻み始めるまで、あと半分。
 千夜を共にするという言葉の意味が、ただ隣りに在ればいいだけではないことを、朔に教えてくれたのは、兄だ。

 兄が運命の相手だった女性と共に過ごした夜は、おそらく十日、二十日と重ね上げて百日以上にはなっていたはず。しかし兄の痣には少しも変化などなかった。痣は千夜をかけて薄くなり、消えてしまうはずなのに。
 彼女が兄の運命の相手だと知ったとき、もう少し三人が冷静だったら、きっとそのことを話し合っただろう。しかしそれはすでに叶わない。だからこそ朔は、一人になってからずっと考えていた。
 運命の相手と百夜以上を共に在ったにもかかわらず、兄の痣に変化がなかった理由。
 朔が思い出すのは、兄の言葉。彼はただ一度しか、彼女を抱かなかったはずだ。彼女を抱かないのかと聞いた朔に、兄は「一度だけ愛したよ。だからそれで充分なんだ」と笑っていた。いつか彼女が自分以外の人を愛してもいいようにと、兄なりの優しさだったのだろうけど。兄のその言葉が、朔に確信を与えている。
 千夜を共に在れという言葉の本当に意味は、千度肌を重ねろということ。

 男が今夜、朔の身体を抱くのなら、岩壁に刻まれた傷は一つ増える。

 肌の白い朔は、面立ちの美しい家系の中でも際立って整った容貌で、朔自身は自分の容姿など何の興味もなかったが、とにかく周囲の目を引く存在だった。
 自分が周囲から浮いた存在だと気付いたのは、一人になってから。それまでは自分の整った容姿を、便利な道具くらいにしか思っていなかった。
 朔はどこへ行っても、うざったいくらいに声を掛けられる。身の危険を感じることも少なくない。しかし死なない身体はそんなときばかり便利で、逃げられなかったことはなかった。

 今、朔を拘束しているこの牢獄だって。
 逃げ出そうと思えば、出来ないことはないだろう。ただ朔は、あえてそうしない。

 ぎいっと鈍い音を立てて、洞窟側の鉄格子の真ん中にある扉が開かれた。伽羅色の小袖(こそで)に派手な友禅の長羽織(ながばおり)。男の姿はどこから見ても堅気の人間ではない。
 鋭い眼光が、朔を射抜く。
 意志が強そうな眉と、威圧的な口元。男は大きな錠を指に引っ掛け、嘲るような笑みを浮かべて、朔を見つめていた。
「気付かなかったのか?」
 そっと目をそむけるのは、気づいていたからだ。
「気付かなかった訳がねえよな?あんたみてえに、抜け目ねえ男が。なんだ?そんな俺に飼われていてえのか?」
 手にしている夕餉(ゆうげ)の乗った盆を、大股に近寄って押し付けてくる。朔は何も言わずに受け取った。
 握り飯に野菜の煮物と漬物の乗ったそれは、毎朝毎夜、男の手で朔に届けられる。心遣いの見える食事は、間違ってもこの無骨な男が作ったものではないだろう。
「相変わらずだな。口が無くなったか?声を忘れたんなら、思い出させてやるぞ?」
 大きな手が朔の顎を捕らえ、ぐいっと引き寄せた。恐ろしさに朔が唇を震わせていると、興ざめだとでも言うように男は朔を離し、そばを離れていく。
 力が抜けて、膝を折る朔の手元。使い込まれた食器がぶつかり合って、僅かに音を立てた。



 男の名は、圭吾(けいご)。
 朔を攫い、人知れずここへ閉じ込めた張本人だ。彼は誰にも任せず、たった一人で朔の世話をしている。もっとも世話と言っても食事を運んでくることと、生活に必要なものを持ってくるだけで、基本的には朔の身体を慰み物にしているだけなのだが。
 毎日足を運んでは、朝飯を押し付け、夕餉を押し付けて、気ままに朔を抱き、朝日が昇る前にはいなくなる。
 粗野な言葉遣いと、傲慢な態度。野性的な容姿を裏切らない勝手さで、朔を振り回していた。
 よほど金回りがいいのか、こんな山の中にも拘らず、毎日の飯は白米。行灯の油は菜種だし、気紛れに持ってくる書も貸本などではなく、買い求めたものだ。綿の入った布団を朔に与えるし、誰に縫わせたものか、朔に合わせて仕立てた着物が絹で出来ていたことも、一度や
二度じゃない。