やっと彫ってもらったんだ。子供みたいに笑って。朔が触れてもいいですか?と問うと、勿論と答えて身体を起こし、朔に背を向けてくれる。白い指で男に触れ、ゆっくりと花の輪郭をたどった。まるでそこに光が差しているかのような、素晴しい出来の彫り物。
――お似合いですよ。
――ん?
――あなたに。とても似合ってる…
男の広い背中にあって、その花は凛と彼を引き立たせていた。飄々とした男とは一見すると雰囲気が違っているようで、しかし艶やかな両者は互いを引き立て合うのだ。
嬉しいね、と目を細める男は悪戯っぽく「もう一回する?」と聞いた。朔は「またにします」と笑顔を見せる。朔の答えなど、男の方も承知の上の睦言だ。
まったく未練など見せないくせに、残念、と口先だけ言って、肩を竦めて見せる。どことなく幼さを見せる男の表情に目を細め、朔は一度だけ彼の背中に口づけた。
さっさと茶屋を後にしてしまう朔を、男は追いかけてなど来ない。しかしそんな時間を望んでいたのだから、朔は充分満たされていた。
一人先に茶屋を後にした朔が、なんとはなしに振り返る。二階の障子をからりと開けた男は、またねと手を振っていた。
ああいう男は好きだ。さっぱりとして、深入りしてこない。朔を疑わない代わりに、自分のことも話さない。
名前を聞いていなかったことに気付き、朔はもしかすると前のときも聞いていなかったのかと思い至った。聞いておけば良かったろうか。
ぼんやり考えながら歩いていた朔は、ふいに周囲の不穏な空気が気にかかって、足を止めた。
生来、争いごとの嫌いな朔だが、探られたくない事情を抱えているせいで、騒ぎには余計に敏感だ。流れに逆らわず騒乱を避ける手段も、すでに身についている。
長く生きた分だけ多くの騒ぎに巻き込まれるのは、愚かな証拠。都に近づかなければ大概は人目を避けられるし、声を立てなければ絡まれる事態も少ない。しかしひっそりとなりを潜めるためには、ある程度の慣れが必要だ。
朔は歩調をより緩やかなものに変え、人々の声に意識を集中する。耳を澄ませていると、周囲に零れる言葉が、尋ねなくても状況を教えてくれた。
――人殺しだ…
――あの大店(おおだな)の…
――ご主人が向こうで…
――懐の物を盗られて…
――お付の丁稚まで…
――まだほんの子供で…
こういうとき、素性を明かせない身の上はやっかいだ。巻き込まれないうちに立ち去るのが懸命だろう。出来ればこの、宿場町自体から。さっきの男には「またな」と見送られたが、もう二度と会えそうにない。名前を聞かなくて良かったと苦笑いを浮かべる朔が、足早に角を曲がったとき。
ぶつかった男が圭吾だった。
大股に歩いてきた圭吾と、足早にそこを立ち去ろうとしていた朔は、結構な勢いでぶつかった。長屋の壁に縋って身を庇った朔の足元に、何かが落ちて。
ぶつかった相手の財布だと気付き、大変だと咄嗟に手を伸ばした朔に、圭吾は「触るな」と低い声で言い放った。
まるで奪われるとでも言いたげな圭吾の声。むっとした朔の視界に、財布から散らばった何枚かの小判と、二分金貨が飛び込んでくる。
庶民が持つには、ずいぶんと不似合いな大金。ちらりと視線を上げ、朔は圭吾の無表情な横顔に眉を寄せた。
――この男か……
年若い男がこんな大金を持っているのも不似合いだが、なにより彼の身体からは血の匂いがする。噂されている人殺しの盗賊は、今さっき商家の主人を殺め、金を奪ったのだという話。何かを羽織って返り血を避けたとしても、匂いまで洗い流す暇はなかったろう。
自分で拾った財布を懐にしまう圭吾は、探るようにこちらを見ていた。人を射るような鋭い視線。着物の上からでもわかる筋肉質な身体。それにこの、血の匂い。
――吐き気がする。
早々に立ち去ろうとした朔は、眉を顰めた圭吾に腕を掴まれた。
「離してください」
「あんた…名はなんという?」
「急ぐんです。離してくださいっ」
振り払おうとするが、身丈も違えば腕回りも比べ物にならない。身を捩る朔の細い身体では抵抗も出来ずに、裏路地に引きずり込まれてしまった。
「何を…っ!」
「気の強え奴だな。何も手篭めにしようってんじゃねえよ」