【君に逢いたくて〜弐〜】 P:05


 長い千夜が始まった。朔は爪が剥がれるのも血が出るのも厭わず、岩壁に傷をつけて、夜を指折り数えている。





 かたん、と。小さな音をさせ、圭吾が布団のそばに置いてあったたばこ盆を手に戻ってきた。月が見える鉄格子の傍らに腰を下ろしている。
 今日、圭吾は暮れ六つの鐘(午後五時頃)が聞こえてすぐにここへ現れたのだが、朔に食事を押し付けてしまうと、今さっきたばこ盆を取りに行くまで、なぜか断崖側の鉄格子から闇の中へ、感情の読み取れない無表情な視線を投げかけていたのだ。
 地獄の幕開けを思い出していた朔は、現実に引き戻されて溜息を吐く。千夜が過ぎるまで、あと半分もないはずだ。

 幸運だったと思うべきなのだろう。あの時圭吾に会わなければ、圭吾があの町で胸が悪くなるような仕事をしなければ。朔はあと何百年、世界をさ迷ったかわからないのだから。
 それなのに、圭吾に抱かれるたび、朔の心は暗く沈んでいくのだ。開放されたその先に、死ぬ以外のことを考えられなくなっている。
 三人でいた頃、晃は何度も年老いた朔が見たいと言っていたけど。朔はもう、充分に生きた。充分過ぎるほどに。
 たくさん血を流すだけで死ねるなら、そんな身体が手に入るなら、もうこれ以上時間などいらない。一人で生きていくことに、意味なんかない。
 早く死なせてくれないものかと、その願いは日々強くなる。

 圭吾はここに来てから、今日はまだ一言も言葉を発していない。牢に入ってくるなり食事を押し付けられたので、しかたなく黙って食べ始めた朔だったが、それが終わってしまうと、どうしていいかわからなくなる。居心地の悪さに、朔はいっそう小さく身体を抱き締めていた。
 朔の身体を抱くでもなく、酷い言葉で傷つけるでもない。圭吾はほんのたまに、こんな風になる。じっと黙って。月を見上げて。酒を傾け、煙管を吸っている。
 華やかな意匠の高そうなたばこ盆を隣に置き、自分で酌をしながら沈黙の中座り込んで。
 静かな静かな、その姿。
 何も話さなくても、彼が放つ威圧的な存在感は変わらないし、月を見上げるその視線の鋭さも同じだけど。こんな日だけは、本当にこの男が人を殺め金を奪うような男なのだろうかと、胸騒ぎがしてしまう。
 いや、考えるな。
 この男の所業、残忍な性格は、監禁されている朔が誰よりも知っているはず。
 圭吾は煙管に口をつけ、ゆっくりと吸い込んで、ふうっと煙を吐き出した。目を細め、煙の行く先を見つめている。そして徳利を手にとって傾けると、豪快に湯飲みをあおって……唐突に、朔を見た。
「…っ!」
 ずっと圭吾のことを見ていた朔は、なにか自分が悪いことでもしていたような気がして、目をそらせてしまう。こうして顔を背けたり、目をそらせることを圭吾が一番嫌っているのは知っている。だが、彼の射るような視線に晒されると、どうしようもなく身体の中が震え上がって、逃げたい衝動が抑えられないのだ。
 怒らせるのは、やっぱり怖い。
 媚びる気など少しもないが、殴られれば痛いし、縛り上げられれば苦しい。傷跡が残らなくても、いや傷が残らないからこそ、わけもわからず振るわれる暴力は、心を痛めつける。
 しかし怯えて肩を震わせている朔に、圭吾は珍しく何も言わなかった。ただじっと、何かを探すように朔を見ているだけだ。
 耐え切れず、朔が顔を上げる。視線の先にいる圭吾は、いつもと同じ無表情。削げた頬が月明かりに照らされ、いっそう彼の野性味を増して見せる。
「…朔」
 ぽつりと、呟いて。圭吾はぽんと煙管を叩き、灰を落とした。
「あんたに藤紫(ふじむらさき)の絽を、買ってやったことがあったよな。あるか?」
 どこへ行くわけでもないのに、朔へ高価な着物を買い与えるのは、圭吾の理解できない所業の一つだ。頷いてみせると、持ってこいと命じられた。
 朔はゆっくり立ち上がって、牢の隅においてあった柳行李(やなぎごうり)を開いた。中には何枚も何枚も、朔が見たこともないような高価な着物ばかりが入っていた。
 朔の身体に合わせた着物は、それらが奪ってきたものではなく買ったものだということを示している。袖を通す者に会わせてもらえずに仕立てるなど、難儀なことだろうに。その分値段だって跳ね上がるはずだ。