【君に逢いたくて〜参〜】 P:04


「桜太が食事を作っているんですか?」
「?…うん。だって兄ちゃん下手だもん」
「じゃあ、私が今まで食べていたものも…」
「兄ちゃんが持って来てたご飯?そうだよ。朔、美味しかった?」
 朔の顔を覗き込むようにして、桜太が微笑んでいる。冷たい指先が震えだしていくのを、朔は止められない。
「朔ってお魚食べないんだよね?兄ちゃんが言ってた。だからぼく、お魚貰った時もちゃんと、野菜の煮たの作ったんだよ。兄ちゃんが豪勢だなって笑ってた。朔も喜んでたって。本当はお味噌汁も持って来られるといいんだけど…ここ、家から遠いから」
 残念そうな言葉に、朔は思わず桜太を抱きしめた。

 よく考えてもいなかった。
 まさか圭吾が作った食事だとは思っていなかったのに、朔は自分の境遇を嘆くばかりで。……孤独だと悲鳴を上げるだけで。
 毎日差し入れられる食事に、心遣いが伺えるのは知っていたはずだ。
 朔が動物性のものを口にしないと知ってから、圭吾の運んでくる食事は植物性のものだけだった。そんな細やかなことを圭吾がするはずもないなら、他に誰かが朔のためにしているということを、気にしてしかるべきだったのに。
 だって……朔は考えたこともなかったのだ。己の知らない場所で、一生懸命に朔を気遣っていてくれた、こんなにも小さな存在。

「朔?どうしたの…朔?」
 大丈夫?と。桜太が朔の背中をさすってくれる。慰めようとする小さな手が愛しい。
 朔はここに閉じ込められてから初めて、嬉しさが零す涙を流していた。こんなに笑って話しをして。まるですぐそこにある鉄格子が、見えなくなってしまったかのように。
 ずっと硬く凍っていた心が、ほぐれてくる。
 見ようともしなかった景色が、聞こうともしなかった音が、少しずつ少しずつ朔の中に広がり始めていた。





 初めて桜太が朔の元を訪れた日、少年は暮れ六つの鐘(午後五時頃)が聞こえる前に帰って行った。
 圭吾の留守中、なにかと桜太を気に掛けてくれている近所の奥さんは、必ず夜や朝方に様子を見に来るらしい。何も言って来なかったから、と言う桜太に朔が少し困った顔をしていると、彼は頼もしい表情で「大丈夫」と笑った。

 ――朔のことは言わないよ、兄ちゃんと約束したもん。おばさんには兄ちゃんのお客さんが泊まってるから、って言っておくね。今までにも何度かあるから、心配しないで。

 圭吾の客というのは、おそらく盗賊仲間のことだ。客のいる間は、近所の人々も家には近づけないのだろう。
 子供に嘘をつかせるのは気が咎めたが、他に方法もなくて朔は「ごめんなさい、ありがとう桜太」と頭を下げた。平気だとでも伝えるように、ぎゅっと朔を抱きしめてくれた桜太を、鉄格子のそばで見送る。
 小さな後姿が消えるまで見つめていた朔は、苦笑いを浮かべて「あの男より余程しっかりしている」と呟いていた。

 桜太が帰った後、朔ははじめて圭吾に買い与えられている本を開いてみた。何か桜太に、読み聞かせてやれるものがないかと思って。こんな暗い牢獄に寝かせるなら、少しでも彼の心を明るくさせてやれるものはないだろうかと。
 本をぺらぺら捲りながら、朔はくすくす笑い出す。確かに朔の趣味などわからなかっただろうが、圭吾の選んできた本は儒教や仏教を扱った難い内容のものから、浄瑠璃本や洒落本などの絵草子まで。ばらばらで、やけに雑多だ。これら全てに圭吾が目を通したのかもしれないと思うと、つい笑えてしまう。
 朔は絵草子の中から、子供の好きそうなものを何冊か選んで寝所へ置くと、断崖側の鉄柵に近づいた。
 鉄格子の隣、岩壁につけた傷。
 今日からしばらくは、これが増えることなどない。なのに、心が落ち着いている。

 胸の内に、晃の顔が浮かんできて、どうしようもなく切なくなる。泣いている顔や、拗ねている顔。表情が豊かだった晃。まっすぐで気丈な晃は、いつも懸命に誰かを愛し、別れ、傷ついていた。全力で悲しみ嘆くのに、一晩二晩と泣き明かしてしまったあとは、いつもけろりとした顔で笑う。
 それは、平気になっているわけではなくて。
 自分を心配する兄たちのことを、自分の痛みよりも気にするのだ。そういうところ、桜太に似ているような気がする。