そう思うのに、焦って言葉が出てこない。
「あ、の…」
「だから、何だって聞いてんだろ」
「えっ、と…そう、桜太のことを、聞いてもいいですか?」
「……。またそれかよ」
うんざりした声。圭吾の口から出てきたとき、尖った色をしていたそれは、すぐに柔らかい音へと変わった。天井が低くなり、狭くなっている奥の岩壁に反響しているせいだ。
朔は少しだけ心を落ち着ける。
ここのところ、何かを聞こうとするたびに言葉に詰まって、結局は桜太を引き合いに出してしまっている。しかし朔自身がそんな自分に気づいている様子はない。圭吾と話をするだけでも、必死なのだ。
「まだ聞きてえことがあんのか?」
不機嫌な顔。見た目だけじゃなくて、心からの不機嫌な表情に、朔は身を竦めてしまう。
「気に触るなら…聞きませんから」
小さく呟いた顎を捕らえ、自分の方を向かせた圭吾は、朔の唇を一度だけ吸った。
「そんなことは言ってねえ」
「でも」
「しつけえ。何が聞きてえんだ」
「あの…」
なんだろう?なんだっけ。
「自分から聞いといて、わかんねえのか?」
「ち、違います。だからあの…そう。どうして桜太のこと、引き取る気になったんですか?」
「あ?」
「だから…。村の人たちが誰も引き取れないと言ったのに、あなたが自分で引き取ると言ったって、そう桜太に聞いたので…」
自分の手の置き所に困った朔が、躊躇いがちに圭吾の逞しい肩へ手を掛ける。彼はちらりと目を遣っただけで何も言わなかった。
「別に、理由なんかねえけど」
「そんなはず、ないです」
「…あんたなあ」
「だって、そうでしょう?心優しい行いなんて、あまりにもあなたに似合わない」
きっぱり言い切った朔は、眉を顰めた圭吾に怯えた表情を作った。そんな表情見せるくせに言ってることは随分だなと、圭吾は軽く舌打ちする。
「…自覚はねえのか」
ぼそりと呟いた言葉の意味するところは、朔に届かない。
「なんですか?」
「なんでもねえ」
説明したって無駄だ。
朔が少しずつ自分から話すようになって、初めて圭吾にもわかったこと。朔は圭吾のことを怖がり、いちいちその不機嫌な表情に怯えるが、そのくせ自身が酷いことを言った時には、たいてい気付かない。
今だって。
圭吾がそんなことをするはずがないと、勝手に決め付けてしまったというのに、朔は自分で自分の言葉をわかっていない。どうして圭吾が急に眉を顰めたのか、本気でわかっていないのだから。
「理由ねえ…」
朔の瞳を越え、遠く天井まで視線を上げた圭吾は、溜息をついて朔を抱いている腕を離し、肘を湯から出して、岩が剥き出しになっている湯船の淵に置いた。そうすると朔を引き止めているものは、何もなくなるのだけど。相変わらず朔は圭吾の膝に座って、無意識に彼の肩へ手を置いている。
「…あの年は、目も当てらんねえくらいの凶作でよ。ちゃあんとした親の下に生まれた子供でさえ、何人か死んでたんだ」
「…………」
「誰も引き取れねえのなんか、わかってたさ。捨ててった女だって、育てらんねえから捨てたんだろ。自分の食い扶持でさえ危ねえっつーのに、生まれたての子供に食わせてやるもんなんか、なかったからな」
「…じゃあ、あなたは?…どうして」
「俺ぁ別に、収穫とは関係ねえ商売だしよ…まあでも、そうだな」
圭吾はその時のことを思い出すかのように、目を細めていた。
「どうしても理由がいるんなら…桜太が笑ってたから、か」
「……笑ってたから?」
「ああ。親と離された赤ん坊なんか、普通はぎゃあぎゃあ泣くだろうが?でも桜太は笑ってたんだよ。困り果ててる大人に囲まれてんのによ、あいつだけ笑ってた」
ふっと圭吾の頬を掠めた笑みに、朔はどきりと胸を震わせた。ほんの一瞬の事で、すぐにその顔は不機嫌な無表情へと戻ってしまったけど。
ああ、やっぱり。桜太の話をするときだけ、彼の表情は柔らかくなる。
「まあ、引き取ったっつってもよ。近所のかみさん連中が面倒見てたしな。俺は何もしてねえよ」
「…でも桜太は、皆さんからあなたへの感謝を忘れてはいけないと、そう言われていると言ってましたよ」