「兄ちゃんは、ぼくに早く出て行って欲しいのかなあ…」
涙をいっぱいにして、桜太は呟いている。その言葉はきっと、彼の小さな胸にずっと溜め込まれていたのだろう。何度かまばたきをするうちに、涙は少年の睫を濡らして、零れ落ちてしまった。
朔は桜太を抱いて、髪を撫でてやる。
「ねえ桜太。桜太は将軍様のお城を見たことがありますか?」
突然話の行き先を変えた朔に戸惑い、何を言い出すのだろうと、桜太が目をぱちぱちさせている。にこりと微笑んだまま、朔は「どうです?」ともう一度聞いた。
「え?…え、っと。ううん、ない。朔は見たの?江戸へ行ったことがあるの?」
「ええ。とても美しくて、大きなお城なんです。見てみたいですか?」
「うん!」
桜太がふわりと笑った朔の顔を見上げているうちに、雨が降り出していた。風向きが幸いして、洞窟の中へ入ってくる様子はないが、空はどんどん暗さを増している。
「ここから江戸までは遠いですから、今の桜太では時間がかかってしまいますね。もう少し大きくなって、それでもまだ見たかったら、江戸へ行ってみたらどうです?」
「朔…?」
「お兄さんに、行ってきますって。そう言ってから。ね?」
「でも……」
「ん?」
「でも、兄ちゃんのご飯作らないと。洗濯だって…」
「桜太。自分のことは、自分でさせればいいんです。だってお兄さんは、行きたいところへ行ってもいいって、そう言ったのでしょう?」
雨はしだいに酷くなるけど、朔の言葉に一生懸命耳を傾けている桜太は、気づいていないようだ。
ごうっと強い風に、草木の揺れる音も聞こえている。やはり風向きはこの牢獄へ向かわなかったらしく、この分なら僅かに入り込んだ雨も、衝立に遮られて中までは入りそうにない。
「桜太のことが邪魔だなんて、馬鹿なことを言うんじゃありませんよ。桜太がいなくなって困るのは、お兄さんの方じゃないですか。でもお兄さんは、困るのがわかっているのに、行ってもいいって言うんです」
朔のことは縛り付けているくせに、桜太のことは自由にさせてやりたいと、確かに圭吾はそう言っていたのだから。
「どうして?」
「さて、どうしてでしょうね?」
「さくぅ…」
意地悪な物言いに、桜太が顔をくしゃりと歪ませた時だ。どんっ!と大きな音が響いた。
「ひっ!」
「ああ、雷様が近くまでいらっしゃったようですね」
「朔、朔っ!」
「大丈夫ですよ桜太。…じゃあ、雷様がいなくなるまでに考えて?桜太はどうしてお兄さんのためにご飯を作るんです?どうしてお兄さんは、桜太と一緒に住んでいるの?」
「え…どうしてって…??」
「ほら、こうしていてあげますから。考えなさい」
朔は桜太を引き寄せ、耳を塞いでやった。そこへまた雷の大きな音が響く。桜太は朔の手の上から自分の耳を押さえつけ、きつく目を閉じた。
小さく呟いた「兄ちゃん」という、縋るような声が微笑ましくて、朔は目を細めていた。
雷は随分鳴り響いていたが、しだいに遠くなっているようだ。大きな音がするたびに身体を竦ませていた桜太だったが、少しずつ音が離れていくと、落ち着いて震えも止まった。そうなると、今度は自分の指先を見つめ、考え込んでいる。
難しい問いかけだ。手習いの先生が尋ねるよりも、ずっと。
桜太がいなくなったら困るのに、それでも圭吾が桜太のしたいようにすればいい、と言う理由。
圭吾にはしたいようにしていい、と言われているのに、桜太が圭吾の元にいる理由。
そんなもの、あたりまえで当然のことだと思っていた少年は、朔に理由を求められて、頭を悩ませている。
雨音はまだ続いているが、朔はそうっと手を離した。
「桜太?」
「…朔」
「答えは見つかりましたか?」
尋ねる朔の美しい顔を見つめていて、何かに気付いた桜太が、はっと口を開いたとき。洞窟の向こうから慌しい足音が聞こえてきた。
「桜太!」
「兄ちゃんの声だ!!」