朔(さく)はそっと自分の唇に触れた。
冷たい指先に触れる柔らかい唇は、まだ熱を持っているような気さえする。
――喋るな。
目を閉じれば、途端に圭吾(けいご)の言葉が蘇った。
初めて聞いた、柔らかな声。朔に向けられた、穏やかな響き。
――頼むから、今日は何も喋るな…
そんな風に囁いて。圭吾の方こそ何も言わず、朔を抱いた。初めて触れるような、躊躇いがちな行為。
言葉は交わさなかったけど、気が狂いそうなほどに優しい手だった。
もう随分経つというのに、身体に熱が蘇って、溜息が落ちる。
朔の長い髪を撫でてくれた圭吾の手が、緩やかに身体を揺すられた悦楽が、まだ身体中に残って消えてくれない。
圭吾が帰ったのは、どれくらい前だろう?それでも朔は昨夜の出来事を忘れられずに、膝を抱えていた。
昨日、夜半になってから現れた圭吾は、口を開きかけた朔の唇にそっと指を触れさせて、囁いた。
――今日は喋ってくれるな、と。
なんだか、優しくなっている自分を責めないでくれと請われたような気がして、朔は胸を震わせた。
高く啼いて圭吾の精を受け取ったあとも、彼は何も言わずに朔の身体を抱きしめ、髪を撫でていてくれた。眠りに落ちる寸前、明日は遅くなるが待っていられるか?と。穏やかな声で聞かれて。黙って頷いた朔の唇に、圭吾は触れるだけの口づけを落とした。
圭吾に請われた通り、朔は何も言わなかった。
穏やかな時間が壊れてしまうのが怖くて、朔からは何も聞かなかったし、何も問わなかった。
目を覚ました時、圭吾の姿はなかったけど。それでも朔は余韻に浸ったまま、ずっと膝を抱えて蹲っている。
圭吾の中に、二人の男がいるような錯覚。一人は不器用だけど優しくて、桜太(おうた)を大事にする人。でももう一人は残虐で、金のために人を殺め、朔を犯した男。
代わる代わる、二人の男に抱かれているような気がして、朔は溜息をつく。
ゆっくりと周囲を照らす太陽は、一人きりの朔を包んで天を巡り、もう傾いてしまっていた。
夕闇の広がり始めた牢獄。
本当は、聞きたいことがたくさんあったのだけど。言葉にすればまた、朔の憎む残虐な男が現れるような気がして、何も言えなかった。
「あなたは、誰なんです…?」
言えなかった言葉をぽつりと呟いた朔の目から、涙が零れ落ちる。
昨日朔を抱いた男は、ずっと探していた運命の相手だった。優しい声と、温かい手。兄や弟に会いたいと思うより、ずっと強い気持ちで傍にいたいと思わせてくれるような人。
――朔……
誰より甘い声で名前を呼んでくれた。
憎しみで暗く沈んでいた心が、すうっと軽くなっていく気がしていた。
彼はどうして、血の気配が消えないような仕事を続けるのだろう。あんなに優しい手を持っているのに。
子供が、殺されたのだ。
桜太を抱きしめる彼の、大きな手で。
それだけは絶対に忘れてはならないことで、いつまでも朔の心を開放しない枷となっている。
殺された少年は、どんなに恐ろしかっただろう。自分の主人が目の前で殺されて、殺した背の高い男が振り返った時、彼は悲鳴を上げただろうか。
甘い陶酔からゆるやかに引き上げられ、朔は手を握り締める。
どうせなら何も知らないままでいたかったとさえ、思い始めている自分。どうしようもなく身勝手なことばかり、考えてしまう自分が、許せない。
長い時間の中で、幾度も理不尽な暴力を振るわれた朔に、兄は何度も何度も諭してくれた。自分達はけして、人を殺めたりしてはいけないのだと。そんなことをしたら、彼らと同じになってしまう。自分達の手を取り、庇ってくれた人々を裏切ることになるのだから。
――たとえ、どんなに恨んでも。どんなに憎んでも、お前は手を汚しちゃいけないんだ。いつか会える、その人のために。
いつの日か必ず、朔を抱きしめ解放してくれる人に出会えるから、と。
兄の言葉を心に刻んで、朔は生きてきた。文字通り身体を引き裂かれたときも、復讐など考えるまいと自分に言い聞かせていた。