だからこそ、我が身可愛さに金を奪い、人を殺めるような人間を許すことなど、どうしても出来ない。
「誰なんです…誰…?」
朔を誘惑する男。
どうしても許せないと思う気持ちを置き去りにして、朔の心を捕らえてしまった圭吾。昨日ここにいた男が、いっそ圭吾でなければ良かったのに。
朔は近づいてくる気配に顔を上げた。
ふらりと立ち上がるのは、それが圭吾のものではないと、わかったからだ。
「桜太?」
遅くなるとは聞いていたが、桜太を寄越すとは言わなかったはず。
やはり朔が察したとおり、鉄格子の向こうに現れたのは幼い少年。彼は手に小さな包みを持っていた。聞かなくてもわかる。食事の入った行李(こうり)だ。
「朔…ごめんね。兄ちゃん仕事で町へ行ってるから、来られないんだ」
「?…桜太、どうしました?」
桜太が来たにしても、中途半端な時間だ。それになんだか、顔色が悪いような。朔はゆっくり少年へ近づいて行くが、彼はなかなか顔を上げようとしない。
「何かあったんですか?」
「ううん、何も。何もないよ」
「桜太。なら顔を上げなさい」
朔の言葉に、少年は首を振る。傍へ膝を折った朔は、彼の顔を覗き込むけど。唇を震わせている桜太に、顔を背けられてしまった。
「どうしたんです。何かあったんでしょう?」
「…何もないから。大丈夫」
「ならどうして下を向いているんです?お兄さんに何か言われましたか?」
「違うよ、兄ちゃんには何も言われてない」
朔は溜息をついて、桜太の小さな頬に手を当てた。
「誰かに、何かされました?」
「何でもないの。平気だから」
「ねえ、桜太。桜太はいつからそんな、人の顔を見ずに話すようになったんです?」
いつだって、まっすぐ朔の顔を見て話す桜太なのに。
少年は僅かな逡巡を見せて、ようやく顔を上げた。しかし朔の顔を見てしまったら、途端に彼の目には、涙が溢れてくる。
「…桜太?」
「な、何でもないよ」
「何でもない顔じゃないでしょう?ほら、こちらへいらっしゃい」
肩を抱こうとする朔に、少年は手にしていた包みを押し付けた。涙をいっぱいに溜めた目をしているくせに、頑なに首を振る。
「何でもない!」
「桜太…」
「ぼく帰るから!ごめんなさい!!」
ぱっと身を翻した桜太を、朔は追いかけようとしたが、鉄格子から向こうへは行けずに立ち止まった。子供の背中が小さくなっていく。
「一体、何が…」
ざわつく胸を押さえて、朔は手元の包みを見つめた。いつもはきれいに包まれているのに、今日は風呂敷が歪んでしまっている。それはまるで、桜太の動揺を表しているようだ。
桜太の泣き顔は何度も見せられたが、あんなにも張りつめた表情は初めてだった。朔はぺたりとその場へしゃがみこむ。
こんな、気持ちを揺さぶる出来事が立て続けに起きては、心が疲れてしまう。食事に手をつけるどころか、立ち上がる気持ちさえ萎えていた。
「どうして、来ないんですか…」
せめて圭吾の無表情な顔が見たいだなんて、思っている時点で朔の答えは見えているのかもしれない。
情けないことに、朔はしゃがみこんだまま、ずっと動けないでいた。胸の中に溢れてくる言葉は、どれも現状に相応しいようでいて、しかし全てを見間違えているような気もする。是か非か、答えが見つからない。いっそ何も考えまいと、何度か頭を振ってみるのだが、どうしても心が静まらなかった。
昨夜の圭吾と、初めて会ったときの圭吾。明るく笑う桜太と、さっきの泣きそうだった桜太が、順々に脳裏を巡って朔を休ませてくれないのだ。
ふうっと息をついたとき。四半時ほど前に帰ったはずの桜太の声が聞こえて、朔はよろよろと立ち上がった。
「朔っ!朔っっ!」
尋常ではない、焦った叫び声。
「桜太?」
鉄格子の扉を開いてやる。朔の前に現れた桜太は真っ青で、しかし中へは入ろうとせずに鉄柵を握り締めていた。
「朔、兄ちゃんがっ!」
「どうしたんですか?そんな慌てて…」