【君に逢いたくて〜伍〜】 P:03


「朔、来て!兄ちゃんが、身体熱くてっ!ずっと朔のこと呼んでてっ!」
 ぼろぼろに泣いている桜太の言葉は、火急の事態だと言うことしか伝わらない。埒が明かないと思ったのだろう、扉をくぐって中へ入ってきた桜太は、朔の袖を握り締め、牢獄から外へ引っ張り出そうとする。桜太の強い力に怯えて、朔は立ち竦んだ。
「ま、待ってください」
 ここから、出るのか?
 出られるのか?
「お願い朔!早く来て、兄ちゃんが…っ」
「落ち着きなさい、どうしたんです。何があったんですか?…彼が、私に来いと言ったんですか?」
 ずっとここに朔を閉じ込めて、絶対に離さないと告げた圭吾が?
「兄ちゃん、怪我してるのっ」
「怪我…?」
「さっきまで大丈夫って言ってたのに、帰ったら物凄く身体が熱くて…呼んでも返事してくれなくてっ!朔の名前、呼んでるのっ…お願い朔、一緒に来てっ」
「待って、桜太…それは、私ではなくお医者様を…」
「村にお医者様なんかいないよっ!ねえ朔、お願い。お願いっ!」
 泣き叫ぶ桜太の声が遠くなるくらい、自分の鼓動が煩くて、朔は身体を震わせる。
 いま圭吾に死なれたら、これまでの夜が無駄になってしまうというのに。自分の痣が消えるかどうかということよりも、今の朔にはこの牢獄を出て行くことの方が大きな障害だった。
 ここを出ていくことが、まるで圭吾を失うことを決断させるかのようで怖い。桜太は圭吾の元へ来てくれといっているのに、随分と矛盾した葛藤だ。それでも捕らわれていた時間が長すぎて、朔を躊躇わせる。
「桜太…」
「お願い…一緒に来て…っ!来てよぉ…」
 朔に取り縋って泣いている桜太を見つめ、朔は震えの止まらない自分を抱きしめた。
 行ってやりたい。
 行ってやりたいのに、足が動かない。
 唇を噛みしめる。あんなに理不尽だと思っていた監禁だったのに、自分は何をしているのだろう。
 一度ぎゅうっと目を閉じて。朔は、鉄格子に手をかけた。
「朔、朔…っ!」
 動かない身体を無理矢理動かして、一歩だけ外へ出た。ざわっと血が騒いだ気がしたのに、振り返ってみるとそれはただの古い鉄柵だ。

 いつでも出られると思っていたのだから。それでも拘束を甘んじて受けていたのは、ただ痣を消したかったから。こんな古ぼけた檻に、朔を捕らえる力など、最初からなかったのだ。
 息を吐き出して初めて、朔は自分が呼吸さえ忘れていたことを知る。桜太の身体を抱きしめ、ゆっくりと離した朔は、なんとか自分を叱咤して歩き出した。
「案内して下さい」
「…来て、くれるの?」
「ええ…行きます」
「ありがとう朔!こっち、早くっ!」
 手を掴んで走り出す桜太に引かれ、朔は足場の悪い洞窟を進んだ。やはり衰えも老いも知らない体は、長いこと走ることも、距離を歩くことさえしていなかったのに、何事もなかったかのように朔を支えてくれる。
 初めて目にする長い闇。
 ここを、圭吾と桜太は朔のために往復していたのだ。

 闇の向こうに月明かりが見えた。やっと洞窟が終わりを告げる。ぱあっと開けた、遮るもののない景色。山の中にぽっかり口を開けている小さな洞窟は、そのつもりで見なければこの奥に牢があることなどわかるまい。
 朔は桜太に手を引かれたまま、細い山道を駆け下りる。遠くに小さな集落が見え、一軒だけ離れて建っているのがわかった。
 躊躇いもなく走る桜太に導かれたその家は、小さな家ではないが、それでも盗賊が住んでいるような、大きな屋敷にも見えなかった。
 戸口のと
ころに子供と手を繋ぎ、立っている女性が見える。近づいていく桜太と朔を振り返った彼女は、見慣れない朔の姿に眉を寄せていた。
「おばさんっ!」
「桜太ちゃん、その人は…」
「朔だよ。兄ちゃんは?!」
 名前を告げただけの桜太に、彼女はもう少し何かを問いたそうだったけど。会釈をする朔に軽く頭を下げただけで、何も言わなかった。
「また熱が上がったようだよ。やっぱり町からお医者を呼んだ方がいいかねえ」
「でも兄ちゃん、呼ぶなって。朔こっち」
 手を離した桜太が、先に家へと入っていく。失礼、と声をかけて女性の前を通り過ぎた朔は、家を見回す余裕もなく中へ入った。