慌てて息子を抱きしめる母親に、朔は優しく笑った。
「怪我をしていなくても、こんなに気にしていたら熱くらい出るでしょう。出たとしてもすぐに引きますから、心配しないで。あまり叱らずに、今日はゆっくり休ませてあげて下さいね」
笑顔の効用を、心得ている朔だ。便利な顔の使い道を知っているので、話を遮ってにこりと笑う。親子は二人で顔を赤くして、どぎまぎと頷いた。
二人が帰った後、圭吾の身体をざっと拭いてやった朔は、骨折部分を固定してやらなければと顔を上げた。
「桜太、さらし布はありませんか?」
「え…?」
「さらしでなくても、何か長い布は……桜太?」
心ここにあらずと言った様子で、桜太は圭吾の手を握り締め、じっと彼の顔を見ていた。こちらも余程堪えているのだろう。朔は溜息をつく。布を探せと言っても、今の桜太に出来るとは思えない。
「…ねえ、桜太。お兄さんを治すのに布がいるんですが、探してもいいですか?」
「あ…うん、いいよ…ごめんね…」
「構いませんよ。お兄さんに付いていてあげなさい」
「うん」
朔は立ち上がり、改めて家の中を見た。来た時は慌てていて気付かなかったが、二間続きの広い家は、大きな柳行李と箪笥がひと棹目立つだけで、男所帯にしてはすっきりと片付いている。素晴しい蒔絵の煙草盆は、圭吾の物だろう。彼が選びそうな逸品だ。
部屋の隅に大きめの文机と、抽斗(ひきだし)のついた手箪笥。硯箱(すずりばこ)の横には何枚かの絵が置いてある。何気なくそれを手に取った朔は、描かれているものに目を奪われた。
何かの習作なのか、同じものが様々な角度から何枚も描かれているのだ。色とりどりの花や、動物、魚。それと……
――どうして…?
鼓動が高くなった。
格好は菩薩か何かのようだが、どう見てもその顔は、朔のもの。
――なぜ、こんなものが…
子供の稚拙な絵じゃない。緻密で、美しい姿絵。朔自身には己よりも美しいとしか思えないが、でもこれは朔だ。きっと、どう見ても。
なぜこんなものがここに?一体、誰が描いたものだ?
桜太にしては、技巧に長けすぎている。もしかして圭吾が?……いや、これは盗賊風情の手慰み、という水準のものではない。しかし絵師の習作にしては、どうにも纏まりすぎた構図。
「…朔?ごめん、ぼくが探した方がいい?」
桜太の声に振り返った朔は、手にした絵と圭吾を見比べ、もの問いたげに桜太を見つめたが、真っ青になっている少年の顔を見て、にこりと微笑んだ。
今は、そんなことに気をとられている場合ではない。
「構いませんよ。そうだ桜太、水を汲んできてもらえませんか。お兄さんの熱を下げてあげないと…」
「わかった!行ってくる!!」
ぱっと駆け出した桜太の背中を見送り、朔は手にしていた絵を元あった場所に置いた。
こんな時に聞いても仕方ない。自分の姿を写し取られた記憶はないが、ここにあるなら桜太か圭吾が知っているだろう。圭吾の熱が引いたら聞いてみればいいと考えて、朔は凍りつく。
圭吾の熱が引いたら?
自分は一体、いつまでここにいる気なのか。彼が気付いたとき、勝手に檻を出た朔を見て、どれほど激怒するだろう。
そっと身体を抱きしめて、朔は首を振る。いま考えても、仕方のないことだ。圭吾がどうするつもりかは、圭吾にしかわからない。とにかく今は、桜太の為にも自分に出来ることをするしかない。
朔は再びさらし布を探し始め……箪笥を開いて。見覚えのあるものを手に、今度こそ驚愕で立ち竦んだ。
――これ……
藤紫(ふじむらさき)の、布の切れ端。
いつだったか圭吾が持って来た絽(ろ)に似ているが、ずっと古いものだ。真ん中辺りには、もうすっかり乾ききっている染みがついていた。これは、血か?
全く覚えがなんかない。でもどうしても気になって、呆然とそれを眺める。
胸が、抑えようもなくざわめいている。
覚えていないはずなのに、この家に来たこともないのに、なぜか朔はこれを知っているような気がして仕方なかった。
「…さわる、な」
はっと振り返る。視線の先には、圭吾が上半身を起こしていた。