ぽつぽつと呟きながら、桜太は目を閉じる。眠りに落ちていく桜太を見つめ、朔は溜息をついた。
「さて、どうでしょうね…」
圭吾が目を覚ましたときに、ここにいるのはやはり、得策じゃない気がする。朔に看病されたことを知ったら、自尊心の高い圭吾がまた暴力的になるような気がしてしまうのだ。
桜太の布団を掛け直してやった朔は、圭吾の枕元に戻った。温くなってしまっている額の手拭を取り上げ、冷たい水に浸してもう一度固く絞り、また額の上に戻してやる。
しんと静まり返った家の中には、桜太の寝息と、圭吾の苦しげな吐息だけが聞こえている。
牢獄の中のほうが広かったのに、ここにいる方が心は開放されていた。
「私がここにいたいといったら、あなたは何と言うでしょうね…」
ぽつりと呟いた、独り言。まさか答えが返ってくるとは思っていなかった。
「いれば、いいだろ…」
はっとして視線を落すと、圭吾がぼんやり目を開けていた。熱っぽい目が、朔をじっと見上げている。
「圭吾…」
名前を呼んだ朔に、驚いた顔になって。そうして圭吾は、ゆったりと頬を緩めた。
「やっと、呼んだな…」
「え?」
「あんた、ずっと俺の名前…呼ばなかっただろ…」
「そう、でしたか?」
自分では気づいてなかった。
いつもならむっと眉を寄せるところなのだろうが、さすがに辛いのかそんな余裕はなく、圭吾は諦めたように目を閉じただけだ。
「まあな…あんなところに閉じ込められてりゃ、仕方ねえか…」
「だって、そんな。気づかなかったんです。…本当なんですよ?」
何を必死に言い訳しているのだろうと思いながら、朔が言い募る。圭吾は目を開けて、また柔らかい表情で笑った。
「ああ、わかった…」
「相手はあなたしかいないのに、わざわざ呼ぶ必要もなかったし…」
「…俺は呼んでたぞ、朔?」
「それは、そうですけど…」
言いよどむ朔に、圭吾がくすくすと笑っている。少し赤くなったまま、拗ねた表情になった朔は、圭吾の頬に手を当てた。
「身体は、どうですか?」
「…痛ぇ」
素直な言葉に、今度は朔が微笑む番だ。
「肋が折れていますから…熱も、もう少し上がるかもしれませんけど。すぐに良くなりますよ」
「そうか…。桜太は?」
「向こうで寝ています。ずっとあなたを心配して、隣で手を握っていたんですけどね」
「ああ、心配かけちまったな…。なあ、平二どうしたか、知らねえか?」
「奥さんと来ていましたけど、私がここに来た時に帰ってもらいました。平二くんが随分と疲れていたようだったので。…あまり、気に病まなければいいんですけど」
眉を寄せた朔にを見つめて、圭吾はなんだか、懐かしいものでも見る様な表情になる。
「相変わらず…あんた子供に甘ぇなあ…」
呟いた圭吾は、布団の中から手を出し、自分の握っているものを見た。
藤紫の布は、大事な着物の切れ端。
「…?…何で俺、こんなもん…」
「ああ、すみません。私が…」
勝手に取り出してしまってと。言おうとした朔を見上げ、圭吾は笑みを消した。辛そうに眉を寄せるから、痛みがあるのかと朔が慌てる。
「どうしました。どこか辛いですか?」
「…………」
「圭吾?」
名前を乗せた舌が、じんわり痺れている。朔はほわりと頬を赤く染めた。
そうだ、この名前を呼んだことはなかった。……一度も、なかったかもしれない。
圭吾は僅かに首を振って、また朔を見上げると、小さくのどが渇いたと呟いた。立ち上がった朔は、汲んだ水を溜めてある瓶のところまで行って、その辺りにおいてあった湯飲みへ水を注ぎ、戻ってきた。
横になっている圭吾はじっと、持ち上げた布を見つめていて。
「…圭吾」
「ん?」
手を下ろした彼が、穏やかな視線を向けてくれる。
昨日の熱を思い出して、朔の身体がきゅうっと切なさを訴えた。身体を這いまわった大きな手が、朔より大事な布切れを握っていることに、小さな痛みを感じてしまう。
ゆっくり、傍へ座って。
朔は湯飲みを傾け、水を自分の口に含むと、圭吾の唇に重ねた。
「…………」
流し込む水が、甘い。