「あんたあの日、時雨と茶屋にいたんだろうが?あいつの背中、見てねえとでも?まさか飯食って茶を飲んでただけだなんて、言わせねえぞ」
圭吾はむすっとした表情で、朔を睨んでいる。不義を責める視線に晒されながら、朔は時雨という男があの日、自分に声を掛けて来た男だと気付いた。
そう、あの……どこか圭吾の腕のものと雰囲気の似た、牡丹の彫り物を背中に入れていた男だ。
「あの、えっと…背中?」
「見たんだろ?」
「…牡丹、でしょうか?」
「やっぱ見てんじゃねえか」
「見、ました…けど…」
「聞いてねえのかよ」
「だって、今日まであの人の名前も知らなかったし…」
「名前も知らねえ男と、肌重ねてんのか?酷ぇのはどっちだ」
朔はかあっと頬を染める。ちくりと嫌味な言葉に、いたたまれない気持ちだった。
自分の傍らに座っている朔が、赤くなって身を竦めている姿を眺め、圭吾は溜息をつき頭を掻いた。彼もさすがに、自分が人殺しの盗人だと思われているなんて、想像もしていなかっただろう。
自分達には、何かと言葉が足りない。
「あれは、俺の仕事だ」
「……え。えええっ?!あの、彫り物ですか?牡丹の?」
「ああ」
「じゃ、じゃあ…あなたの仕事って…」
「彫り師だよ。盗賊に間違われるくらいの大金を請求する、腕のいい彫り師だ」
呆然として、それから朔は文机を振り返る。あそこに置いてあった何枚もの絵。今までどうにも聞けないままだったけど。じゃあ、あれも……
「……あの絵」
「絵?」
「あそこに置いてある絵は…じゃあ」
「ああ、俺だよ。彫り物の図案にな。ここんとこ、どうにも描くものが、あんたに似ちまう」
ふっと、圭吾の頬を掠めた自嘲的な笑み。
それほどまでに、焦がれたのだ。朔の美しい姿に夢中になるあまり、仕事も何も手につかなかった。焦って筆を執ってみても、描けば描くほど何もかもが朔を思わせ、他人の肌に刻むのが嫌で仕方なかった。
淡々とした圭吾の言葉に、朔は自分の手を胸の前で握り合わせる。
彫り師の仕事がどんなものかは、知っていた。ひとさしひとさし、肌に色素をすり込んでいくのだ。……それは確かに、血の匂いがするだろうし、あれだけ素晴しい仕事をするなら、報酬も高かろう。
「あの…」
小さな声に、圭吾はじいっと朔を見つめる。
「言うことがあるだろ」
「……はい」
「言えよ」
「……。ごめんなさい」
きゅうっと、言うなり口を噤んで下を向いてしまった朔を見て、圭吾は目を細めた。
焦って、困って、おろおろと。おそらくは圭吾なんかより、ずっと長い時間を生きてきたはずなのに。そうしている朔は、可愛らしいことこの上ない。
さっき朔の囁いた言葉が、圭吾を揺すっていた。
……一緒に逃げて、と。
あんな熱っぽい言葉を、こんな美しい人から囁かれて、喜ばない男はいないだろう。
朔の腕を引っ張った圭吾は、彼を自分の肩に縋らせる。躊躇いがちにそっと逞しい胸へ手を置いた朔の、淡い色の髪を大きな手が撫でていた。
「悪かったと、思ってんだな?」
「……はい」
「許して欲しいのか?」
「…許して、ください…」
「じゃあ、あんたも。俺があんたをずっと閉じ込めてたこと、水に流してくれよ」
囁かれた言葉に、朔は恨めしそうな視線を上げる。
朔の勘違いと、圭吾の監禁が天秤に乗るのだろうか?強姦まがいの事までされて、あんなにも酷い言葉で傷つけられたのに?
「全部、ですか?」
「嫌か?」
全然反省してない、面白がっているようにさえ見える顔。朔は少し唇を尖らせて、拗ねた表情になった。
「あんまりにも、大きさが違いすぎませんか。私はまだ一度もあなたに謝ってもらってませんよ」
朔は素直に謝ったのに。
圭吾は朔を抱きなおして、また髪を撫でている。この長い髪が、お気に入りなのだろうか?
「そりゃあそうなんだけどよ…」
子供のように呟いた圭吾は、じっと何もない空間を見つめていた。
夢から覚めなければ、一歩も前には進めない。誰よりもそれを知っている男だ。少し長い夢を見すぎた。
さらさらと、くせのない朔の髪に指を絡ませる。言葉を探していた圭吾は唇を噛んで、ぼそっと呟いた。
「…大体な、俺が子供を手に掛けたり、するはずがねえんだ」