「だからそれは、謝ったじゃないですか」
「俺は子供にゃ弱ぇんだよ」
謝ったと言うのに、何度もそこだけ繰り返すから。何が言いたいんだろうと、朔は訝しげな表情になる。
「?…そう、なんですか?」
圭吾は遠くを見るように目を眇め、それからじっと、もの問いたげに朔を見つめた。
「…圭吾?」
「俺自身、子供の頃に何度か命を救われてんだ。だから大人は子供に手を貸してやるもんだと、そう思ってる」
「それは……」
その通りだけど。どうにも圭吾の言葉には、含みがあるような気がして。ぼうっと見上げている朔の、色の薄い瞳に苦しげな圭吾の姿が映っていた。
「圭吾…」
「俺を助けてくれた一人は、師匠だ。あの人がいなきゃ、俺は彫り師になってねえ」
「…………」
「もう一人は、この世の者とも思えねえくらい、美しい鬼だった」
「…鬼?」
ぽかんと、何を言っているのかわからないという顔で朔は圭吾を見上げている。朔の視線の先で、圭吾は苦笑いを浮かべていた。
「…春の終わりだったな。いつまでも桜の木の下で、俺を見送っていてくれた、夢のように美しい鬼だった。あの鬼に助けてもらってなかったら、俺ぁ…死んでたよ」
「それは…良かったです、ね?」
ますます訳がわからないと。首を傾げる朔に、圭吾は撫でていた髪をゆるく引っ張った。
「覚えてねえか」
「え……?」
「あんただよ。熱に浮かされてあんたに渡した、藤紫(ふじむらさき)の布。あれ、あんたのだろう?……俺の腕に巻いてくれたんだよ。雨みてえに桜の花びらが舞い散る中で、まだ十にもならない俺を、助けてくれたときにな」
圭吾の静かな告白に、朔は呆然と身体を起こした。
懐から取り出したのは、この家に初めて来たとき、圭吾に『返して』もらった藤紫の布きれ。どこか見覚えのある、でもどうして見覚えがあるのかわからなかった、着物の切れ端。圭吾が大事そうにしまっていたそれと、少しだけ顔を赤くして笑っている圭吾を見比べる。
――桜?…と、鬼??
記憶の断片が繋がらない朔の身体を引き寄せ、圭吾はぽつぽつと昔話を始めた。
そう、もう二十年近く前の話だ。
少年の住んでいた村は流行り病に襲われ、何人もの村人が死んでいた。
ばたばたと、名前を知っている人たちが死んでいく毎日の中で、ついに少年の両親も倒れてしまった。
祈祷師の祈りも通じない、どんな薬も役に立たない、絶望的な事態。少年は苛立つ大人たちの話し合いを盗み聞き、村から近い山にだけ生えている薬草なら、人々を病から救えるかもしれないと知る。
すぐにでも山に入ってくれと少年はせがんだが、大人たちは目を逸らすばかりだった。彼らが怯える理由は、少年にもわかっていた。
その山に鬼が住みついているというのは、子供でも知っている話だったから。どんなに屈強な男でも、入れば二度と出てこられない。鬼に捕らわれた者は、同じように鬼にされてしまうのだと言われていた。
それでも、少年は決めたのだ。
優しかった両親のため、死んでしまった友人のために、山へ入ろうと。
大人でさえ恐れる鬼の存在が、怖くないわけはない。しかし命を賭けてでも、両親を救いたかった。全身を真っ赤に腫れ上がらせて死んだ友人の、妹だけでも助けてやりたかった。
勇敢な彼の行動を大人たちが止めなかったのは、無謀な子供の言葉に耳を貸せないほど、疲弊しきっていた証拠かもしれない。
桜の舞い散る、春の終わり。
山に入った少年は、崖の中ほどに目当ての薬草を見つける。
子供にはどだい、無理な場所なのに。果敢にも手をかけ崖を登り始めた少年は、案の定足を滑らせて転げ落ちた。
痛みに、気が遠くなった。
役立たずな自分に、腹が立った。
悔しくて悔しくて、流れる涙を止められなかった。
動かない手足を叱咤し、爪が剥がれるまで大地を掻いていた。絶望に気が狂いそうだった。魂だけになってでも、あの薬草を手に入れたい。そして村に届けたい。
絶叫した少年は、近づいて来る足音に視線を動かした。助けて、と叫ぼうとしていた。
しかし、そこで少年の見たもの。
桜のけぶる淡い色の情景に、あまりにも美しい姿。白い肌に優しい色の髪をした、冷たい表情の鬼。
幻かと思った。自分は死んでしまうのだと思ったのに。