――無茶をしますね…
囁いて、鬼は少年を抱き上げた。
人々に聞いていた恐ろしい異形とは、似ても似つかぬ優しい鬼。やわらかな藤紫の着物を裂き、冷たい指先で少年の手当てをして、代わりに薬草を採ってくれた。
這ってでも村に帰ろうとする子供を宥めて、自分の足で歩けるようになるまで、一晩じゅう面倒を見ていてくれた。
言葉少なな鬼は、名前すら教えてくれなかったけど。ありがとう、と少年が躊躇いがちに呟いたとき、鬼は花が開くかのように微笑んでくれた。
その美しさは、幼い心に強く強く刻まれたのだ。
傷だらけの身体で、でも両親のために早く戻らなければと焦る少年を、鬼は山の入り口まで送ってくれた。
――私があなたの勇気を知っています。きっと、見守っていますから。…ご両親が良くなるといいですね…。
最後にくれた言葉。
少年は駆け出して、でも振り返って。
鬼は確かに、自分を見守ってくれていた。夜桜の舞う中で、ひっそりと立っていた。
微笑を浮かべている、美しい鬼。
大きく手を振って駆け出した少年は……しかし、間に合わなかった。
家にたどり着いたとき、両親はもう事切れていた。それならと、同じ病に苦しむ人々のところへ薬草を届けようとした少年は、大人たちの手で薬草だけ奪われ、村から叩き出された。
鬼の棲む山から帰ってきた子供。
鬼の手に落ちた、呪われた子供。
容赦ない罵倒と、残酷な暴力で村を追い出されて。少年は縋るように山へ戻ったけど。
自分を見守ると言ってくれた鬼とは、何日山をさ迷っても、二度と会えないまま。
山を下りて、村から村、町から町へ。
少年は冷めた目をした子供になっていた。人からものを奪うことなど、なんとも思わないような。
……確かにあのままだったら、圭吾は朔が誤解した通りの大人になっていただろう。
「でもまあ、俺は師匠に会えたからな」
ぽつりと呟いた圭吾は、抱いていた腕を抜け出し、少し離れた所に座っている朔を見つめて、微笑んだ。そっと自分の腕を撫で、まだまだ追いつけない師の技に目を止める。この彫り物は、師匠の元から一人立ちしたときに、彫ってもらったものだ。師から弟子へ、技の継承が終わったとき彫ってもらうのが、圭吾を育ててくれた人の受け継ぐ流儀だったから。
「まあ、あんときに夜桜にしてくれつったのは、ちっと感傷的だったかもな」
どうにも朔と別れた時の情景が忘れられなくて、師匠に何がいいかと問われたとき、夜桜にしてくれと頼んだのだ。
苦笑いを浮かべる圭吾が顔を上げると、朔は涙を流して古い布を握り締めていた。
「…どうした」
「ごめんなさい…」
「朔…」
「許してください…あなたを待っていなかったこと…」
記憶の彼方に霞んでいた、幼い少年との出会い。
「少しだけ、覚えています」
「朔…」
自分の存在が知られ、山狩りが始まるのを恐れた朔は、逃げるように居場所を移してしまっていたのだ。
「私のことを鬼だと知っていて、そんな私が住む山だと知っていたのに、病に倒れた親御さんの為に薬草を探しに来た、気丈な子供と会いました…あなた、だったんですね…」
でも、そんなに明確な記憶じゃなかった。
自分の方こそ死にかけているくせに、朔を見てまだ死ねないんだと叫んだ、幼い子供との邂逅。
忘れてはいなかった。
家に薬草を届けるまでは死ねないと、その子が上げた悲鳴。
桜が咲いていたとか、自分が藤紫の着物を着ていたとか、そんなことは覚えていなかったけど。確かにあの時、懸命にもがいていた子供は、圭吾と同じように意志の強い目をしていた。
朔は頭を振った。自分の軽率な行動が、一人の少年を孤独にしてしまったのだ。見守るといった以上、待っていなければならなかった。いっそ一緒に山を降りてやらなければならなかったのに。
ぎゅうっと、手にした古い布を握り締める。
ああ、自分があの山にいなかったら。
いっそこの国に帰っていなかったらと思うと、涙が零れて止まらない。
「…私など、いなければ良かった。私があの山にいなかったら、あなたは…」
そんな目に遭わなかった、と。続けようとした朔の口元を、圭吾の手が止めた。
「死んでたよ」
「圭吾…」