巳の上刻。(10:00〜10:40)
確かに朔は、町の門に着いていた。
夜明けと共に起き出し、近所のかみさんに留守を頼んで村を出てきた朔に、圭吾が予定よりも一日早く戻るかもしれないなどという考えはなかった。
よく言えばおっとりした、正直に言うならあまりにも天然な、朔の性格。
ぼうっとしているわけでも、頭が悪いわけでもないはずなのに。朔の思考はどこか突飛で、たまに圭吾ですらついていけなくなる。
せめて朔自身が、己の容姿を自覚していてくれればいいのだ。
多少ものの考え方が他人と違っていたって、それはそれで朔の個性なのだから、圭吾も笑っていられる。しかし彼が己のその、人を魅了して止まない姿形をわかっていないとなれば、話は別。
朔は自分に熱を上げる者なんて、圭吾だけですよ、なんてことを頑なに言い張るのだから。
そのとき二人の噛み合わない話を聞いていた、近所のかみさん連中さえ顔を見合わせ、笑っていたのに。
本人ばかりが本気でそんなことを言うのだから、圭吾の心配は拡大するばかり。
かと言って、朔が鈍いばかりかと思えば、そうでもなかった。変なところが妙に敏くて、とてつもなく頑固なのだ。
朔と想いを繋いだころ、圭吾はちょっとした怪我をしていた。大したことはなかったが、彼はその怪我に甘えて、随分長いこと仕事を休んでいたのだ。
町からは客の到来を告げる連絡が何度も来ていたが、圭吾はその一切から背を向けていた。
良くも悪くも、桜太が町へ行くことになって。二人きりの甘い時間を手に入れてしまったら、圭吾にとって朔以外の全てが煩わしくなってしまっていた。
まだ身体が痛いの、本調子じゃないのと、子供のような我がままを言い続け、家で朔に甘えていたのだけど。
しかしついこの間、町から届いた文の内容に激怒し、圭吾は物凄い勢いで村を飛び出して町へ向かってしまった。
そんな圭吾の、どこから見ても怪我人とは思えない姿。
――誰が怪我人ですか!
朔が自分の言葉を疑わないことに甘え、だらだらと日々を過ごしていた圭吾は、このことをきっかけに仕事を怠けていたことを知られてしまった。
町では、まだまだ子供だと思っていた桜太の、切ない恋慕をまざまざと見せ付けられ。自分の手を振り切ってでもその相手のもとにいたいと訴えられて。
そのことだけでもがっくり落ち込んでいた圭吾は、村に戻った途端、朔から「仕事をしなさい」と厳しく言われてしまった。……弱り目に祟り目とは、まさにこのことだが。自業自得とも言うかもしれない。
――あなたが人の生活態度をとやかく言える立場ですか!怠けてないで仕事をなさい!もう怪我なんて、すっかり良くなっているんでしょう?!
言いくるめられていたことがよほど気に入らなかったのか、何を言っても朔は圭吾の言い分を通さなかった。
町で圭吾を見かけ、追いかけてきた連絡役の男。仕事場として部屋を借りている宿屋、相模屋の主人、喜助(きすけ)。友人の息子で、圭吾の仕事を手伝ってくれている弥空(みそら)。
彼らから、仕事はいつ再開するんだ、もう客が来て待っているんだ、なんて詰め寄られているところに、朔が居合わせたのも不味かったろう。
仕方なく仕事を引き受けた圭吾だったが、さすがに朔を町へ連れて行くことは出来ず、十日後に必ず戻ると言い置いて村を出た。
それが、九日前の話。
朔は門を前にして、足を止める。
どこから入ろうかと思案していたが、もうそんな必要はないのだと気づいて、少し笑った。
今までは素性を明かせないので、隠れるばかりの生活だったけど。そんな日々は圭吾に出会い、一変した。
誰かにお前は何者かと聞かれたら、逃げずに答えればいい。自分は山ふもとの村に住む、朔だと。
それは当たり前のことかもしれないが、朔にとってずっと憧れていた、焦がれて止まなかった返答。いっそ誰かに聞かれたいと思ってしまうくらい。
ゆっくり歩き出した朔を見て、門番の男は笑顔を見せてくれる。彼が圭吾と共にこの町へ来た際に会った男だと気づき、朔の方も表情を和らげた。
「おはようさん。なんだい、早ええな」
にこやかに語りかけてくれる。朔も笑って「おはようございます」と答えた。
「まだ暗いうちに村を出たので」
「そうかい。今日は一人なのかい?」
「ええ」
「じゃあまあ、気ぃつけて」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げ、門をくぐった。
圭吾が有名なせいで、朔が一人で歩いていても、方々から声をかけられたり、会釈を送られたりする。
もちろん、圭吾が一度くらい一緒にいたからといって、相手が朔を覚えているはずはなく。人々が朔を覚えているのは、彼の容姿のせいだが、そんなことに気づく朔ではない。