午の下刻。(13:20〜14:00)
圭吾は相模屋の暖簾をくぐっていた。
ここで仕事をしていることは話してあるし、いくら朔でも一度来たことのある宿への道を迷うことはないだろう。
視線を宿の奥へ向けたまま突っ立っている圭吾を見て、中年の女が「ああ!」と声を上げた。彼女は慌てた様子で圭吾に近づくと、心底安心したように手を合わせ喜んだのだ。
「圭吾さん、まだ町にいらっしゃったんですね!ああ良かった」
「どうした?」
「先刻、朔さんという方がいらっしゃって…」
「朔が?!」
圭吾は女に向き直り、ようやく追いついたかと息を吐く。しかし彼女は、予想外のことを言い出した。
「私、圭吾さんがお帰りになったこと知らなくて」
「…なに?」
「お仕事中だと思いますからお呼びしますかって言ったら、邪魔しちゃ悪いからって、出て行かれたんです」
「………。おいおい」
何をしているんだ何を!
呆然とする圭吾の前で、彼女は申し訳なさそうにしょげ返っている。
相模屋はそう大きな宿というわけじゃないが、下働きの一人一人が全ての客を把握できるほど、小さな宿でもない。彼女の犯した間違いは、けして責められるようなものではないのだ。
しかし今の圭吾には痛恨の極みだった。
「すみません、私…」
「…いや、いい。構わねえよ。それで朔はどこへ行くとか言ってなかったかい?」
落ち込む彼女の肩を、励ますようにぽんと叩き、圭吾は疲れた顔で笑ってやる。女は思案するように顎に手をあてて、そういえば、と呟いた。
「確か金平糖はどこで買えるかお聞きになって。あたしが大黒屋さんの裏手にある梅島屋さんに売ってますよってお答えしたら、大黒屋なら知ってるからって」
「いつのことだい?」
「ええと、巳の中刻(10:40〜11:20)だったと思います」
金平糖はきれいな形の砂糖菓子で、まだまだ値の張るしろもの。
圭吾はまだ桜太が村にいる頃、留守番をさせている負い目もあって、よく土産に買ってやっていた。それを知っていた朔は、圭吾が仕事中だと聞き、おそらく暇つぶしに、金平糖を桜太へ届けてやる気になったのだろう。
今から追いかけて間に合うかどうか疑問だったが、とにかく後を追って梅島屋へ向かおうと。女に軽く手を上げ、相模屋を出ようとしていた圭吾は歩き出す寸前に、見知った男から声をかけられた。
「よう圭吾、まだこんなとこにいたのか」
落ち着いた声の主は、相模屋に戻ってきたばかりの主人、喜助だ。かけられた声に、圭吾が力なく笑う。
「まだじゃねえよ」
「あ?」
「俺は村から戻ってきたんだ」
「なんだそれ…」
朝早くに発った圭吾を見送ってくれた喜助は、不思議そうな顔になった。
いそいそと村へ帰り、朔の不在に慌しく町へ戻ってきた経緯を聞いた彼は、首をかしげる。
「…何だよ」
「いや…朔だと思ったんだがなあ…」
「は?」
喜助はちょうど巳の中刻、朔がここへ来たという頃、裏の屋敷の方から相模屋を出た。その時、左側の酒屋の角を曲がっていく淡い髪色の後姿を見たというのだ。
「…おかしいだろ。あんたが裏から出てきたんなら、大黒屋の方へ向かう朔は反対側へ歩いているはずだ」
「そうだよなあ…見間違いか?」
相模屋の裏から出てくれば、大黒屋へ向かうのは右。酒屋は左で、反対側だ。
思案する二人は同じことを思いつき、ほぼ同時に顔を上げた。互いの表情に、考えたことは同じだと気づいて。
「…まさかだろ」
「いや、朔ならありえる」
「しかしそんなところに菓子屋があると思うか?普通」
「だから、朔ならありえるんだよ」
二人は傍らに立っていた女に視線をやった。彼女はいっそう申し訳なさそうに口を開く。
「あの…米問屋の大黒屋さんだとは、言いませんでした」
ごめんなさい、と再び謝られるが。これも彼女が責められるような事ではない。
圭吾は頭を抱えた。
この町には、大黒屋という名の店が二軒あるのだ。片方は圭吾が向かおうとしていた、米問屋。もう一軒は町の中心から少し離れた色町にある、料理茶屋だ。
「ったく…あいつはっ」
ため息。
そんな色町に高級な菓子匠があるなんて、普通なら考えない。普通なら。しかし朔は間違いなく、そこへ向かっている。
「喜助、悪いがもう一晩、離れを空けてくれるか」
「構わねえよ。もとからお前さんが十日逗留するつもりで、客の予定は入れてねえ」
「助かる。どっかで朔を見かけたら、離れへ放り込んでおいてくれ」
「そりゃ構わねえが…おい、圭吾?」
慌てて駆け出した圭吾の後姿に、喜助は眉を寄せた。
「…朔を引き止めるのは構わねえが、朔が来たことをお前はどうやって知るんだ…」
どんどん小さくなっていく圭吾の背中。あまりに余裕を失っている様子に、喜助は苦笑いを浮かべていた。