午の上刻。(12:00〜12:40)
二人の予想通り、朔は色町にたどり着いていた。
料理茶屋の大黒屋にたどり着き、朔はきょろきょろと辺りを見回している。
――裏、というのはどちらでしょう?
通りから離れた料理茶屋。一軒だけ離れたそこに、裏と呼べるような場所はない。
当たり前だ。ここは大黒屋違いなのだから。
しかし当然、そんなことは考えないし、教えてくれた相模屋の女の言葉も疑わない朔は、仕方なく辺りを歩いてみることにして。通りへ戻ろうかと振り返ったときに、言い争う声を耳にした。
「しつっこい男だね!さっさと手ぇ離しなよ!」
「なあ頼むよ葉霧(はぎり)!俺と一緒に逃げてくれっ」
「はあっ?!馬鹿じゃないの!何様のつもりだい貧乏人!」
「大体、全部てめえのせいだろ!てめえが言うから俺ぁ、店の金に手え出して…」
「人のせいにすんじゃないよ」
「な…っ!こっちがおとなしくしてりゃ、つけ上がりやがって!!」
「はん、付け上がってんのは、あんたじゃないか。金もないくせに、汚い手であたしに触るんじゃないよっ」
朔は声の聞こえた路地を覗いてみる。小気味いい啖呵を切っている少年は、施された化粧で陰間だと知れた。
少年はきれいな顔立ちに眦を吊り上げ、腕を掴んだまま引きずって行こうとする男を、きつい眼差しで睨みつけている。
怒りで顔を染めている中年の男は、色町のはずれという場所柄を考えると、おそらく少年の客なのだろう。
「葉霧、てめえ…いい加減にしろよ」
男の声が、一段低くなった。
「なにかって言やあ、金、金、金!てめえはそればっかりだ!人を小馬鹿にしやがって!!」
「あははは!他に何があるってんだい?
その金であんたは、あたしを買ってんじゃないか」
「葉霧っ!」
「金にもの言わせて、あたしのこと縛り上げて、無理矢理犯すのが好きなんだろう?違うってのかい!」
「お、お前だって、そうされんのが好きだって」
「はっ!だからあんたは、馬鹿だって言うのさ!誰が好き好んで、あんたみたいな変態と付き合うもんか!とっととその手を離しなよっ!!」
葉霧のきつい言葉に、男が払われた手を振り上げる。朔は思わず飛び出そうとしたのだが、葉霧の口元に笑みが浮かんだのを見て、足を止めた。
「っ!!あああ!!」
振り上げた手を押さえ、男が蹲る。
嫣然と見下ろす葉霧の手には、きれいな細工の簪(かんざし)。先の尖ったそれには、刺されて蹲る男の血が付いていた。
「ばあか。おとといおいで!」
「っぐ…は、ぎりぃっ!」
「あんたみたいのに怯んでたら、陰間なんかやってらんないんだよ!いつまでもぐずぐず言うなら、お役人を呼ぶよ!!」
冷たい一瞥をくれてやった葉霧は、踵を返して歩き出した。
そこでようやく、呆然と突っ立っている朔に気づき、訝しげな顔になる。
「なんだい?あんた」
「あ…えっと」
「見世物じゃないよ、巻き込まれないうちにとっとと行きな」
冷たい表情を浮かべる葉霧の後ろで、男がゆらりと立ち上がった。
「俺は…てめえに惚れてんだぞ…」
暗い声に、葉霧は眦をぎっと吊り上げもう一度男を振り返った。
「ほんとにしつこい男だね」
「てめえとだったら…あの世へでも逝けるって、俺はそこまで惚れてんだ…」
「ああそうかい。あたしは金のない男に興味なんかないよ」
いつまでもぐずぐず言うのは、性にあわないとばかり。再び歩き出した葉霧の後ろで、男は懐からぎらりと光る匕首(あいくち)を取り出した。
もう二度と男を振り返る気のない葉霧は、気づいていない。
「はぎりぃぃっっ!!!」
目を赤くしている男が、刃物をひらめかせる。
「危ないっっ!」
朔は咄嗟に葉霧を抱き寄せ、振り下ろされる匕首を払いのけてしまった。
まさか気の小さい男がそこまでやるとも、通りがかりの朔が割って入るとも、思っていなかったのだろう。
しばし葉霧は呆然として、しかしすぐにふるっと頭を振った。
「馬鹿っ!何してんだいあんた!!」
ぐいっと朔の身体を押し返し、白い手が鮮血を零しているのを見た葉霧は、素早く傷の上から朔の手を掴んだ。大した力がなくても、こうして強く握ってやれば、止血の代わりになる。
互いの手に、ぬるりとした感触が広がって。朔を見上げた葉霧は、顔色をなくし青ざめていた。
「死ぬ気かい、馬鹿なお人だねっ!ちょいと誰か!この男を捕まえてっ!」
葉霧に声に、わらわらと集まってきたのは、色町で働く屈強な男たち。彼らの姿を見て切りつけた男は逃げ出し、追いかけられる姿を確認した葉霧は、朔の手を掴んだまま歩き出す。
「あの、えっと…」
「なに考えてんの」
「は?」
「あんた、そんななりで腕に覚えでもあんのかい?」
「いえ…そういうのは、苦手です」