【9特集・改】 P:12




 申の上刻。(16:00〜16:40)
 圭吾は近江屋に到着した。


 この町で一番大きい呉服屋である近江屋には、圭吾が育てた子供、桜太が奉公に入っている。
 葉霧を描くための算段を、この近江屋の跡継ぎである弥空に任せてみようと考えながら足早に歩いていた圭吾は、店の前に到着して近江屋を見上げた。

 色々と複雑な事情を抱えた近江屋は、早くに他界した一人娘の婿を、家から遠ざけていた。この婿が圭吾の悪友だ。
 最初、圭吾が弥空と会ったのは、悪友の息子としてだった。
 弥空は遊び人である悪友と、どこが似ているのかわからないくらい、出来た息子。
 容姿だけなら少しばかり似ているような気もするが、彼らは見事なくらい対極的な性格だった。
 幼くして母を亡くし、父と離れ、一人で近江屋に残された弥空は、そんな経緯もあってか、年に似合わぬ落ち着きを備えている。彼の言動にはいちいち店や父に対する気配りが見えて、圭吾は不憫に思っていたものだが。
 彼が抱える仕事への思いや、野心を知ったとき。圭吾は弥空を子供扱いしなくなった。
 今では弥空自身が、圭吾にとって歳の離れた友人だ。

 弥空は穏やかな笑顔の中に、近江屋を継いだ先を見据えている。今さら帰ってきたって父に近江屋の跡目は譲りませんよ、と笑う。
 圭吾は彼の仕事に大きな信頼を寄せ、町へ出るたび客の相手や道具の調達などを任せていた。
 呉服屋と彫りもの師なんて、一見なんの繋がりもないようだが、弥空は圭吾のもとで多くのことを学んでいる。呉服屋の中にいるだけではけして得られない、圭吾の持つ知識や感覚、考え方を吸収することに、弥空は驚くほど積極的だった。

 圭吾はちょうど店から出てきた弥空を見つけ、慌てて声をかけた。
「圭吾さん…どうしました?」
 不思議そうな弥空の表情。今朝早くに帰ったんじゃないんですかと、言下に尋ねている。
「あ〜…まあ、一旦は帰ったんだけどよ」
「はい?」
「色々とややこしい話でな。桜太はいるかい?」
いえ…あいにくと今日は、朝から使いに出ていますが」
「そうか…。じゃあ、朔は?訪ねて来なかったか?」
「朔さん…?いえ、いらっしゃってませんけど」
 本当に、どうしたんですか?と問われ。圭吾は周囲を見回しながら、これまでの話を聞かせてやる。いい加減、追いついてもいい頃なのだ。
 しかし弥空は、申し訳なさそうな顔をして圭吾を見上げた。
「どうした」
「菓子匠の梅島屋さんでしょう?今日までお休みだと聞きましたよ」
「……は?」
「なんでも、着くはずの船が嵐に遭って遅れているのだとか。一昨日から店を休まれてます」
 葉霧は半刻前に朔を送ったと言っていた。どんなにのんびり歩いていたって、もう梅島屋の戸が閉まっていることには気づいているはずだ。
 圭吾はすうっと青ざめる。
 とうとう朔の行方を見失ってしまった。
 じわりと湧き上がる、焦燥感。
「ったく、あの馬鹿…邪魔したな、弥空。悪りぃが朔が来たら引きとめといてくれ」
 言うや否や駆け出そうとする圭吾の腕を、弥空が慌てて掴んだ。
「ちょっと待って下さいっ」
「なんだ、急いでんだよ」
 振り返った圭吾の目は、余裕をなくして鋭さを増してしまっている。いつもなら何事にも、悠然と構えているはずの圭吾なのに。弥空はため息をつきつつ、背の高い圭吾を上目遣いに見ていいですか、と口を開いた。
「あなたが駆け回っていてどうするんですか。朔さんが来て私が引き止めても、それをどうやってあなたに伝えるんです」
 落ち着いた声で諭され、圭吾はちょっと目を開いた。今までどうして、それを考えなかったのか。
「…お前の言う通りだ」
 押し黙った圭吾の腕を放した弥空は、こちらも思案するように口を噤んだ。
 恋情に身を焦がし、余裕をなくしている圭吾を、愚かしいとは思う。しかしいつもより余裕のない圭吾が、好ましいとも思うから。なんとか手を貸してやりたいと思って。
「わかりました。じゃあこうしましょう」
 軽い調子で圭吾の背を叩いた弥空は、ここで待つよう告げると店の中へ入っていった。すぐに表へ出て来たとき、彼は何人かの男を連れていて。
 近江屋の下働きと思しき男たちに向かい、凛とした声で指示を出す。
「朔さんのことは皆さんご存知ですね?必ず二人で探して、見つけたらどちらかの方が、店に連絡を入れてください。また四半刻ごとに店へ戻って、それぞれ状況を確認してください」
「かしこまりました」
「あなたは先に門へ行って、朔さんが町を出ていないかどうか、確かめて来ていただけますか」
「へい」
「では皆さん、よろしくお願いします」
 手を打つと同時に上がった弥空の声を聞き、彼らは軽く圭吾に向かって頭を下げて、方々へ散っていく。合理的極まりない弥空の手際に、圭吾は舌を巻いた。