申の上刻。(16:00〜16:40)
圭吾が弥空に会う、少し前の話。
ようやく梅島屋の前にたどり着いた朔は、目的の店が閉まっているのを知って、がっくり肩を落としていた。
こんなことなら余計なことは考えず、先に近江屋へ行っていれば良かった。
そうすれば桜太にも会えたし、上手くすれば弥空から、圭吾の仕事がいつごろ終わるか聞けたはずなのに。
弥空が圭吾の仕事を手伝っている話は、知っていたので。
――お休みとは、また運のない……
こういう計画性のなさが、葉霧に抜けていると言われたり、圭吾から子供のような注意をされるゆえんなのだろうか。
朔は空を見上げ、ため息をつく。
村を出たときには明るく晴れていた空。雨の気配などどこにもなかったのに、いまは少し雲が厚くなってきているような。
上手くいかないときというのは、こんなものだろう。恨めしそうに空を見つめ、手ぶらでもいいから近江屋へ寄ってみるべきか、もう相模屋へ戻ってしまおうか。
思案しながら振り返った朔は、すぐそばを流れる水路の傍に蹲り、大きな木に寄りかかっている老人を見つけた。
釣りをしているようでもないし、少しずつ翳る空の下で日向ぼっこもないだろう。
「…どうか、なさいました?」
朔の声に老人は疲れた顔を上げた。
急に声をかけられたせいか、驚いた表情になっている。
彼は人通りの迷惑にならぬよう、道から離れていたのだ。そこへ見たこともないような美しい若者から、笑みを浮かべて声をかけられたものだから。驚くのも当然か。
朔の美しさに息を呑み、彼はつい何も考えずに「足が」と呟いてしまった。
「足?…ああ、こちらですね」
膝を折った朔は、何の躊躇いもなく老人の履物を脱がせると、腫れた足首に触れてみる。
「っ!」
「す、すいません。…腫れが酷いようですけど…ご自宅は近くですか?」
「いや、あの」
「はい?」
きょとんとした、朔の表情。
老人は一見すると冷たいくらいの朔の美貌が、一気に角をなくして柔らかく愛らしいものに変わったのを見て、呆気にとられ苦笑いを浮かべた。
「お前さんは…変わったお人だね」
「私、ですか?…よく言われるんですけど、そんなに変わってますかね?」
言われたことがよくわからず、朔は可愛い仕草で首をかしげた。
老人はけっこうな時間、ここへ座り込んでいたのだ。せめて痛みが引けば、自分で立って、歩けるだろうと思ったので。
昼過ぎの人気のない時間。しだいに日の光が遠くなる中、先を急ぐ人々は老人に気づきもしなかったし、また彼自身も町の衆に迷惑をかけたくなくて、人通りから隠れるように座っていた。
なのに朔といったら、唐突に現れ、詳しいことも聞かずに傍へ膝を折って、痛めていると知るや否や、断りもなく人の足に触れている。
人がいいと言うべきか、変わっていると言うべきか。微妙なところだろう。
「家はすぐそこだ。もう痛みも引くだろうよ。お気になさいますな」
「ああ、骨を痛めているわけではなさそうです。少し待っていてくださいね」
……容姿ばかりは整っているが、本気で人の話を聞かない若者だ。
老人を置いて少し離れて行った朔は、懐から取り出した手拭いを裂くと、それを水路の水に浸している。
気にするな、と。言ったはずなのだけど。全然聞いている様子のない朔に、老人は呆れ果てて沈黙し、ついに笑い出した。
「はははは!お前さん、いつもこんな風なのかね?」
「え?ええまあ…こんな風?」
答えるものの、こんな風とはどんな風なのか。いまいちわからないまま、朔は冷やした手拭いで、器用に老人の足を固定してやる。
そこでふと、顔を上げた。
「そういえば」
「なんだね?」
「私、勝手に……すいません」
勝手に足をとって、具合を見たり。
勝手に布を裂いて、手当てを始めたり。
あまりに言葉足らずな己の行動に気づいて、朔の頬にかあっと朱が差した。
これでは「変わっている」と言われても仕方ない。
居心地悪そうに俯いてしまった朔の姿に、老人はいっそう笑みを深くする。
「いやいや、手当てをしてくれたのは、ありがたいと思っているよ。しかしお前さんも、どこぞへ用があったんだろう?手間をかけて悪かったね」
すまなかったと続ける老人に、にこりと微笑んだ朔は隣に並んで、腰を落ち着けてしまった。
「人の難儀を放っておくほどの用など、そうありませんよ。もう少し休まれて、痛みが引くようでしたら、ご自宅までお送りいたしますから」
「構わないのかい?」
「もちろんです」
自分の身が、傷や病と縁遠いせいかもしれないが。朔はこんな風に、痛みや苦しみを抱えた人を放っておくのが苦手だ。後々まで気になって仕方ない。
もう一度すまないねえと呟いた老人は、ふうっと息を吐いた。