【9特集・改】 P:14


「自分が年だと言うことは、わかっていたつもりなんだがね。思うように身体が動かないのは本当につまらないものだよ。ひょいとこの木の根を跨いだつもりだったんだが、足が上がっていなかったようだ。転んだときには、我がことながら驚いてね」
 自嘲気味に語る老人は、年は取りたくないもんだねえと呟いている。その言葉に、朔は首を振った。
「痛みや苦しみを、ひとつずつ溜め込んで。たくさんの思いが詰まった身体は、しだいに重くなってゆくものですよ」
「お前さん…」
「時間と共に老いてゆくからこそ、人は命のありがたさを知るのでしょうから」
 零れ落ちるように消えていく命を、いくつも見つめてきた朔だから。老いていくことが、嘆くばかりの変化ではないことを知っている。
 人は老いていく日々の中に、多くのことを知るのだ。明日死ぬかもしれないその時にならなければ、気づけないこともある。
 思わずしんみりと語ってしまった朔は、はたりとなって口を噤んだ。
「?…どうしたね?」
「…すいません…つい余計なことを申しまして…」
 目の前の老人よりも、ずっと長い時間を生きてきたけど。何も知らない老人からすれば、若造に説教されている気分だろう。申し訳なさそうに肩を落とす朔の隣で、老人は優しげな笑みを浮かべた。
「気になさることはない。お前さんの言うことは、いちいちもっともだ」
 何か思うことがあるのだろう。老人は光を遮られ、しだいに色の濃くなっていく水面を見つめて、目を細めている。

 黙って隣に座っている朔は、落ち込んでいた気持ちを、少しばかり持ち直した。
 大黒屋を勘違いして遠回りしたことも、目的の金平糖が買えなかったことも、残念な話だけど。そうして時間を取られたせいで、優しい目をした老人に出会い、手を貸すことが出来たのなら。悪いことばかりじゃない。
 葉霧に会ったことも、この老人と会ったことも。世の中には無駄なことなどないと、そう思えてくる。

 ふふ、と笑みを漏らした朔に、老人が視線を向けた。一人で笑っている姿を見られてしまって、朔の頬がわずかに赤くなる。その恥ずかしそうな様子に、にこやかな笑みを浮かべた老人は「さて」と傍らの木に手をかけた。
「一雨来そうだ。そろそろ行かねば、店の者を心配させてしまうな」
「痛みは大丈夫ですか?」
「ああ。お前さんのおかげで、随分と楽になったよ」
 立ち上がろうとする老人の腕を取って、朔は彼の身体を支えてやる。ゆっくり身体を伸ばす老人にあわせ、腰を上げた。
「お送りします」
「いやいや、年寄りに付き合ってくれただけでもありがたかったよ。家は本当に、すぐそこだ」
「いいんです。送らせて下さい」
 朔の頑なな言葉に、老人の方も照れくさそうに笑った。
「そうかね?では世話になろうか…」
 ありがとう、と。丁寧な言葉。
 老人の言動には、端々に彼の器の大きさや、細やかな心遣いが感じられる。それはきっと彼が、言葉の最後まで噛み締めるように声にする為なのだろう。
 老人を支えて歩く朔は、そんな彼の口調が、誰かと似ていることに気づいた。
 誰だった?と、不思議に思って。
 そういえばそれは、圭吾の年若い友人だった、と思い至ったとき。
 老人の導きに従って、彼を支え送って来た朔は、見覚えのある大店を前にしばし呆然としていた。
「ここ、って…」
 活気のある声と、出入りする客の姿。呉服屋の暖簾には「近江屋」という文字が染め抜いてある。
「ご存知でしたかな?」
「近江屋さんって…」
 知っているも何も。
 今さっき、老人の話し方と似ているな、と思い出した圭吾の友人、弥空のいる店だ。そうして、訪れるかどうか迷っていた桜太の奉公先。
 驚くような偶然に、朔の眼が丸くなる。
 そのとき、二人の前に一人の少年が現れた。
 彼は慌しい様子で、傍らの男に何かを話しながら歩いていて。ふいに顔を上げ、目の前に立っている二人の姿に気づき、立ち止まった。信じられない、というように互いを見つめる朔と少年を見比べ、老人が首を傾げる。
「弥空、どうかしたかね?」
 尋ねる老人の言葉に、朔は苦笑いを浮かべた。
「弥空さんの、おじい様でしたか」
「孫を知っておいでか…?」
「この方は、圭吾さんのところの方ですよ。…桜太くんの」
 ため息をつきながら自分の祖父と、その祖父を支えている朔を見つめた弥空は「どうなさったんですか」と呟いた。
「いやなに、道中に足を挫いてしまってな。難儀しているところを、この方が助けて下さったのだ」
「それは…ありがとうございます。大丈夫なんですか?おじい様」
 気遣う弥空は、店の者を呼んで朔の肩から祖父を受け取った。
 そうして隣に控えていた男を振り返ると、苦笑いを浮かべる。