酉の中刻。(18:40〜19:20)
朔はようやく、圭吾の待つ相模屋の暖簾をくぐる。
朝来たときに声をかけた女性が近づいてきて、傘を畳む弥空を待っている間に、朔は何度も何度も謝られてしまった。
「あ、あの…えっと」
泣きそうな顔で詫びる彼女に、上手い言葉が出てこなくて。うろたえる朔の横に、傘を預けた弥空が戻ってきた。
瞳に涙を貯めて深く頭を下げる女と、首を振りながら言葉を探している朔。しばらく様子を見ていた弥空は、このままでは埒が明かないと踏んで、口を挟んだ。
「お気になさることはありませんよ」
「弥空坊ちゃん…でも私…」
圭吾の所在を確かめに行かなかった。
大黒屋といえば米問屋だと、思い込んで余計なことを言ってしまった。
このままでは彼女が、何もかも自分が悪いなどと言い出してしまいそうなのを察した弥空は、肩を竦める。
「話は伺っていますが、私はそうあなたばかりが悪いとは思いませんよ?朔さん会いたさに、皆が寝静まっている朝方ここを発ったのは、圭吾さんの勝手。あなたが圭吾さんを呼ぶと言ったのに、それを断って出掛けたのは、朔さんの勝手。そうでしょう?まあ、大黒屋さんをお教えするときに一言、米問屋と付け加えていれば良かったことぐらいじゃないですか?あなたが責められるとしたら。…それだって、朔さんがこの町に詳しくないことを知らなかったんですから、仕方ありません」
ね?と。明るく言い聞かせる弥空に、頭を下げていた彼女はようやく顔を上げ、微笑みを浮かべた。
僅かの間に、方々丸く収めてしまった弥空のことを、朔が呆然と見つめている。
「さて、圭吾さんは離れですか?」
「はい。ご案内します」
「いえいえ大丈夫ですよ、仕事に戻っていただいて。私の勝手で上げてもらいます」
にやりと口元を歪めた弥空に女はくすくす笑い、改めて朔を見上げてもう一度だけ頭を下げた。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「あ、あの…私のほうこそ。ありがとう」
微笑む朔の美貌に、思わず彼女はぼうっと立ち竦む。弥空はとっとと宿へ上がり込み、行きますよ、と朔に手招きをした。
奥へと広い相模屋の廊下を真っ直ぐ歩き、渡り廊下になっている庭の傍を通ると、一室だけ離れがある。格段に値の張る部屋だが、そこが圭吾の定宿だ。
勝手知ったる様子で先に歩いてくれる弥空を見つめていた朔は、感心してほうっと息を吐いた。
「弥空さんは…本当に、出来た方なんですね」
「は?」
何の話だと、前を行く弥空が足を止めずに振り返った。
「圭吾がよく言うんです。弥空さんは本当に出来た人で、きっと今のご主人…おじい様を越えるような人になるって」
手放しで褒めてくれる朔に、弥空は照れくさそうな顔で笑う。
「さあどうでしょう?先のことはわかりませんよ」
だがその言葉には、否定も肯定もない。
「野心家が好きなんですよね、圭吾さん」
「そう…なんですか?」
「目的の善悪は構わないそうで。…てめえの野心に忠実な奴は、誰を裏切っても自分のことを裏切らねえからな。って。圭吾さんの口癖です」
声を低め、圭吾の口調を真似る弥空に、朔は笑みを浮かべる。
降り出したばかりの雨が、しとしとと庭の緑を濡らしていた。渡り廊下を真っ直ぐに突き当たった弥空は、離れの障子に手をかけて朔を振り返る。後ろに立っている朔は、思いつめたような顔になっていた。
しんと静かな離れにたどり着いてしまうと、どうにも胸がざわついてしまう。
会いたい会いたいとばかり思って、村を出てきた朔なのだが。圭吾が朔を探し回ったと聞かされた後なので、会うのがなんだか怖いような。
そんな怯えた様子に、弥空は少し意地の悪い笑みを浮かべている。
「開けてもいいですか?」
笑いを含んだ声。意地悪な問いかけに気づかず、朔は何度か深呼吸をしてから、頷いた。
すっと開いた障子の向こう。
六畳ほどの部屋に、正面を向いた圭吾の姿。
圭吾の不機嫌さは、尋ねなくても伝わってくる。びくっと肩を震わせる朔の背中を、弥空が優しく押してくれた。
「遅くなりました」
弥空が声をかけると、じっと朔を見つめていた圭吾は、ぷいっと弥空の方へ身体を向けてしまう。
「面倒かけたな」
「構いませんよ、これくらい。…朔さんにはお世話になってしまいましたし」
「なんだ?」
圭吾の正面に座った弥空は、手を引いて自分の隣に朔を座らせる。圭吾は弥空の言葉に、少し眉を寄せた。
「昼に出かけた祖父が戻っていなかったんですが、朔さんに手を貸していただいて戻ってきたんです。難儀しているところを助けていただいたそうで」
思わぬ偶然を聞かされ、驚いて朔を見た圭吾は、目が合うと途端に視線をそらせてしまう。子供のようなその態度に、弥空は笑い出した。
「なに笑ってんだ」