【9特集・改】 P:18


 
 
 酉の下刻(19:20〜20:00)。
 沈黙の離れに、雨音が響いている。


 すっと立ち上がった圭吾は、庭に向かう障子を少し開いた。途端に離れの中は、甘いような雨の香りに満たされていく。
 下を向いていた朔が、ようやく顔を上げると、障子に寄りかかった圭吾がこちらを見つめていた。
「圭吾……」
「雨、やみそうにねえな」
「……はい」
「村に帰れねえじゃねえか。なあ?」
 にやりと笑う圭吾の、子供っぽいような口元。朔はほっとした表情になって、自分に伸ばされた手を取る。強い力で引っ張られるまま逞しい腕の中に納まった朔は、間近になった圭吾の頬に手をあてた。
「勝手なことをして、ごめんなさい」
「随分と町ん中、歩き回ったみてえだな」
「……ごめんなさい」
 しゅんと肩を落とす朔に、圭吾は笑う。
「葉霧に会ったんだって?」
「葉霧さんを…知ってるんですか?」
「ああ。きつい目つきで口の悪い奴だろ?その割りに真っ直ぐな心根の、さっぱりした。あいつは前に何度か…っておい、何考えてる」
 頬を強張らせる朔の額を、圭吾が軽く小突いた。
「馬鹿。余計なこと考えんな」
「だって…」
 彼は、陰間なのだから。その身で男を慰め、金を貰う商売だ。
 自分だって身奇麗とはいえない過去だが、圭吾の口からあんなきれいな子の名を聞くのは、朔だって面白くない。
 拗ねた表情の朔を窺い、圭吾は楽しげに淡い色の髪を弄っている。
「俺は何度か、姿を写させてもらっただけだ。あんなけきれいな陰間には、江戸でもめったにお目にかからねえだろ。…あいつには、なよなよした女みてえな美しさじゃなく、男しか持ってねえ凛とした艶やかさがあるからな」
「ああ…そうですね」
 それは確かにわかるような気がする。朔は目を細めて、葉霧を思い出していた。
 葉霧には、化粧を落とした姿を見たいと思わせるような、内側から輝くものがある。美しい光彩を隠した、原石に触れたときのように。
「彼の姿を描いたことがあるんですか?」
「ああ、何度かな。…見てえなら、明日にでも弥空に言ってみろ。あいつきっと持ってるから」
「弥空さんに?」
「俺の描いた図案やら何やら、ほとんど弥空に預けてあんだよ。物好きだからなあ…ちゃんと集めて、きれいに綴じてやがる」
「見せていただけるでしょうか」
「構わねえんじゃねえか?捨ててなけりゃ出してくれんだろうよ」
 朔には信じられないのだが、圭吾は自分の描いたものに、ほとんど興味を持っていなかった。あれだけ美しい絵を描くというのに、全ては彫り物の為だからと、家でも紙に書いたものは大抵、その辺に放り出してある。
 長い時間の中で、朔は何人かの絵描きに会っていたが、圭吾ほど自分の描いた物に執着しない者は初めてだった。朔の姿を描いたものだけは残してくれているようなのだが、出会う前の圭吾が描いたものを、朔は見たことがない。
「圭吾の描いたものは全部、弥空さんが持っているんですか?」
「最近のはな。適当に捨ててたら、弥空が自分にくれって言い出してよ」
「捨ててたんですか?!」
「ああ…使い道もないだろ?あんなもの。弥空だって、何に使うんだか…」
「…羨ましい…」
 ぼそっと呟く朔に気のない返事を返しながら、細い身体を撫でていた圭吾は、ふとそれに気づいて華奢な手を取った。
「これ、どうした?」
 右側の手首から指の根元まで、丁寧に布が巻かれている。朔も視線を落として、ああ、と呟いた。
「葉霧さんに聞いていないんですか?」
「葉霧に?いや…葉霧にはお前の行方を聞いて、また絵を描くと約束をしただけだ」
 その言葉に、朔がぱあっと嬉しそうな表情を浮かべる。
「描くんですか?葉霧さんを」
「まあなあ…あそこの旦那が俺を上げてくれるんならな」
 そういえば弥空に繋ぎを取らせようと思っていたんだと、いまさらながら思い出す。明日にでも話しておこうと思って顔を上げた圭吾は、嬉しそうな様子の朔を見て首をかしげた。
「どうした」
「ねえ圭吾、私も連れて行ってくれませんか?」
「は?…どこに」
「葉霧さんを描くときに。圭吾が筆を執る姿が見たいんです」
「…いつも見てんだろ」
 怪我を理由に仕事を怠けていたときだって、腕を鈍らせないために家では筆を執っていたのだから。
 しかし朔は首を振るのだ。
「そうじゃなくて…圭吾が葉霧さんを描いているところが見たいなあって…駄目ですか?」
 渋い顔をする圭吾に、朔は上目遣いで尋ねる。ふと先刻の、弥空の言葉が蘇った。自分が涙でも見せれば、絶対に圭吾は言うことを聞いてくれるなんて言うけど、本当だろうか?
 顔を上げた圭吾は、朔の思惑を見透かして眉を寄せると、痛くないように白い頬をつねった。
「何考えてる」
「…どうしてわかったんですか?」
 まだ何も言ってないのに。