思わず振り返ろうとした朔は、ぎゅうっと抱きしめられてしまった。
「わっ…ちょっと、なんですか?」
抱きしめられ、首筋に顔を押し付けられて。何がなんだかわからない朔は、圭吾からそうっと手を見せられた。
自分の、細い手首。
ゆるゆる撫でる圭吾の指が離れると、そこには葉霧を庇ったときについた刃物傷が、薄く存在を残している。
絶対にありえないものが。
当然の顔をして朔を見上げている。
「……え?」
「長かったな、朔」
「あの……あれ?私」
「ああ」
「だって、こんな…圭吾」
傷はどんなものでも、見る間に塞がってしまうはずだ。流れた血を拭えば、痛みの記憶を嘲笑うかのように、白い肌が何百年も朔を見上げていたはずなのに。
「あ…あ、あ」
頭で理解するよりも先に、涙が零れた。唐突な終幕よりも、抱きしめてくれる圭吾の腕が熱くて、そればかりが心を締め付けた。
ただ圭吾の顔が見たくて、首をねじると彼は、抱きしめている腕を緩めてくれた。向き合った朔は、圭吾の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのを見て、ようやく、自分の身体に起きた奇跡を信じた。
「わた、し…」
「ああ」
「おわっ…た?」
「そうだよ」
「痣、背中の月は?」
圭吾の首筋に手を伸ばして、同じ形をしていたはずの痣に触れる。
何事もなかったかのように、圭吾の首筋にはそれがあるのに。
呆然としている朔の手を握り、圭吾が祈るような表情で、華奢な朔の手を強く自分の額に押し付けていた。
「影も形もねえ」
「け、いご」
「きれいな肌だ。痣があったなんて、信じらんねえくらい…」
見上げてくれる優しい瞳の人が、ぼろぼろと涙の零れる朔の頬を、ゆっくりと拭ってくれた。
圭吾の瞳に映る自分の姿は、何よりも、誰よりもきれいに見える。
世界中の誰より。
幸せそうに泣いている。
「圭吾……」
「一人でよく頑張ったな」
労う声が、じわりと心に染み込んだ。
「っ、ふ…けい、ごっ」
「もう終わったんだ、全部。お前は今日から、俺と一緒に歩いて行くんだよ」
ともに、年老いて。詰め込んだたくさんの思いに身体が重くなり、自由に動けなくなっても。
朔は圭吾の首に腕を回し、身体を押し付けて目を閉じた。影を作る長い睫が、止まらない涙で濡れている。
黒い月の浮かんだ彼の首筋に頬を押し付け、甘えるように擦り寄った。大きな手が宥めるように、何度も何度も背中を撫でてくれる。
こうして触れ合う肌も、積み重ねた年月の分だけ皺を寄せ、いつか乾いていくのだろう。
でもきっとその時には、同じように老いた圭吾と、命の愛しさや時間の優しさに微笑みあうことが出来る。
二人で織り上げた思い出を、ぽつりぽつり話し合って。いつか、永遠に目を閉じるときまで。
「……圭吾」
「うん?」
「これからもずっと、一緒にいて下さい」
切ない嘆願の声。朔の顔を覗き込んだ圭吾は、嬉しそうに目を細めていた。
「ああ、一緒にいような」
「はい」
「明日っから、何するよ?…朔、お前は何したい?」
夕焼けに、明日の約束を確かめる子供のようだ。今までだって、一緒にいたのに。まるで今日から、新しい日々を始めるのだと言いたげな圭吾。
朔は涙に濡れたままの顔で微笑んだ。
「何でも。…あなたと一緒なら」
圭吾の体温を移され熱くなった指先で、彼の唇をなぞる。にっと笑った口元が、朔の唇を塞いだ。
さらりとした肌を撫で上げられ、朔は圭吾の舌に吸い付きながら、もう圭吾の刻んだ跡しか残っていない背中を震わせる。
「ん…っ、あ」
「痕が、な…」
囁く声を聞きながら、朔は押し倒されるまま、身体を横たえて圭吾を見上げた。
「あ、と…?」
「ああ。付かなかったろう?今まで」
はだけた着物の中を滑っていく、圭吾の指先が熱い。はあっと息を吐き出す朔は、手を伸ばして彼の頬を撫でている。
その手を取って、圭吾は白い腕に唇を押し付けた。
「ぁあ、やっ…」
軽く歯を立て、背中に刻んだのと同じように赤い所有印を押した圭吾は、曖昧な行灯の光にそれを浮かび上がらせて見せた。
「な?きれいに残ってる」
「あ…ほんと、に」
今までこうなることすら、知らなかったけど。それは確かに艶めかしく、朔の腕を飾っていた。
不思議な気持ちで朔が自分の腕を見つめていると、圭吾は嬉しそうにそれを舐め、淡い色の長い髪をかき上げてくれた。
「どんなに抱いても、お前には何も残らなくて。俺は…不安だったんだろうな」
いつだって朔が、どこかへ行ってしまうような気がしていた。圭吾の中には、幼い頃に朔を探して山を歩き回った、あの時の焦燥感が消えなかったから。
「…どこへも行くなよ」
「圭吾…」
「お前が消えたら、俺は泣くぞ?」
あんまりにも拙い言葉で拘束しようとする圭吾に、朔はくすっと笑いを零す。