ある時、当時まだ皇太子だったクリスティンの給仕をしていた若いメイドが、緊張のあまり誤ってワイングラスを倒してしまった。中身をクリスティンの服にぶちまけ、周囲が凍りついたときも、彼はメイドを諌めたりしなかったのだ。
―――君の手が触れるところに、グラスを置いてしまったんだね。濡れなかったかい?申し訳ないことをしてしまった。
そう言って、泣いて謝るメイドの肩を優しく撫でてやったクリスティンは「堅苦しい格好をしているのに疲れていたから、ちょうどいい」と上着を脱ぎ笑っていた。
誰に対してでも、そういう人なのだ。
クリスティンの気遣いを知って、同席していた弟王子や賢護五石(ケンゴゴセキ)も、次々に上着を脱ぎ、正装を解いてしまう。先王のアーベルまでが正装を解こうとするので、慌てて隣にいた王妃と、息子である二人の王子が止めたことを覚えている。
驚くテオをよそに、彼らは笑いあいながら、そのメイドのおかげで助かった、と場を繕っていた。
ラスラリエの繁栄を髣髴とさせるようだった状況が記憶に蘇り、テオは辛そうに眉を寄せる。
もうあの楽しい光景は戻らない。
先王は殺された。赤の賢護石も死んだ。その様子を見ていた王妃は無事に生き残ったものの、心痛のあまり公の場には一切姿を現さなくなった。
クリスティンは王となり、弟王子と賢護石たちは海賊に成り下がった。
あまりに変わってしまった今のラスラリエこそ、テオには信じられない。ずっとあの楽しい時が、続くと信じていたのに。
気遣いに溢れた皇太子。彼の思いやりを素早く理解していた、弟王子と賢護五石。自分たちの対面やつまらない格式より、己の過ちに涙を零す少女のため、彼らは同じ志で動いていた。
あのままクリスティンとリュイスたちのもとに新体制が敷かれていたら、ラスラリエはどれほど幸せな国になっただろう。
そう思うからこそ、テオは自分の身に起きていることより、クリスティンが裏切られたことに心を痛めている。
「あの方がどんなに素晴らしい方か、リュイス様は僕なんかよりずっとご存知のはずなのに…」
過去のことなど忘れてしまったかのように、リュイスは今、名前を聞くことさえ拒絶するほど、クリスティンを憎んでいる。
どうしてこんなことになってしまったのか。賢護五石や魔族の中で、何が変わったんだろう。弟王子は彼らに何を吹き込んだのか。
考えても答えの見つからない疑問。
溜息を吐くテオは、静かな救護室の外から聞こえる、話し声に気づいた。
首をかしげて振り返り、足音を立てないよう扉に近づく。