「落ち着いて、大丈夫だから。何も悪いことなどない」
「でも、私…」
「いいかい?私の目を見て。ちゃんと、私を見るんだ」
「え…ええ…せんせ」
「そう。何も考えなくていい。ただ、私を見なさい」
「…せん、せ?…」
「うん。私が誰か、わかるかい?」
「………」
「アメリア?」
「…あなた」
「うん」
「どう、なさったの…?患者さんは?」
分厚い本を、急にぱたんと閉じたかのように。アメリアの声は落ち着きを取り戻し、何事もなかったかのように、男と言葉を交わしている。
蹲っていたレフは、身体中の力が抜けるのを感じて、そのままぐったりと床に手をついた。
―――来てくれたか、ベルマン…
もうこれで、今夜の騒動は終りだ。
レフは疲れきった顔を上げた。誰もいない真っ暗な部屋。どれくらいここにいたのだろうと考えて、緩く首を振る。
そんなこと、どうでもいい。もう終わったのだから。
こつ、と頭を後ろの壁に当てる。こつ、こつ、と。何度かその行動を繰り返す。
アメリアを助けてやるのが自分ではないことに、相変わらず少しだけ寂しさを感じる。でもこの気持ちは、あまりに傲慢な感情だ。
彼女を追い込んだのも自分。
彼女から記憶を奪ったのも自分。
だからもう、レフはあの女性に関わってはならない。
いつもこうして、手出しをすることも出来ず、アメリアに会うことさえ出来ずに、彼女の泣き声を聞いているとき。過ぎ去った思い出が蘇ってくる。
母にくっついて王宮に出入りしていた、可愛らしい少女。
屈託のない笑顔でレフを見つめ、立場も種族も乗り越えて、いつも明るく話しかけてくれた。
容姿の年齢が釣り合うようになり、少女と賢護石は愛し合うようになって。しかし彼女は、自分だけが成長していくどうしようもない運命に、打ち勝つことが出来なかった。
―――貴方だけ何も変わらない!私はどんどん醜く老いていくというのに、貴方は変わらないわ!私はいつか醜い老婆になって、貴方に捨てられてしまうのよ!そんなことになるくらいなら、貴方なんか消えてしまえばいいっ!
確かに賢護石は皆、ヒトを超える美しさの持ち主だ。もちろんレフもそれに違わず、鮮やかな髪色と釣り合うだけの、整った容姿をしている。
しかし己を磨くことに努力を惜しまない彼女は、誰もが認める、とても愛らしい女性だったのだ。
でも、だからこそ。
二十歳を過ぎた頃から、アメリアは自分だけが成長することを、とても気に病むようになってしまって。鏡に映る自分を見つめては涙を流し、レフに自分を捨てないで欲しいと何度も訴えていた。
そんなことにはならないと、繰り返し諭していたのだけど。あまりにも繰り返される同じ問答に、彼女が疲れていくのと同じくらい、レフ自身の心もまた、追い詰められていたのだろう。
彼女がレフに短剣を向けたのは、ちょうど今日と同じ、嵐の夜。
悪鬼の表情で襲いかかる、変わり果てた彼女の姿。……レフはその時、抵抗せず力を抜いてしまった。
アメリアが望むのなら、無残に斬りつけられても構わないと、そう思ってしまった。
華奢な女性の力で、いくら深く切りつけようと、賢護石であるレフが死に至ることはない。