ベルマン医師の妻として、一児の母として。夜の嵐に記憶を混乱させることさえなければ、幸せな人生を送っていられる。
「レフ様、アメリアに会っていただけませんか?」
いつも通り聞かれて、レフは苦笑いを浮かべ、首を横へ振った。
「やめておこう」
「…そうですか…」
「案外、しつこいな。お前も」
くすっと笑ったレフを見て、ベルマンも口元を緩めている。
「貴方がご承諾下さるまで、何度でも申し上げます」
「会ってどうなるものでもあるまいよ」
「そう思って下さるなら、是非」
「だから、しつこいと言うのに」
まるで友人同士のように笑いあう。
ベルマンは初めてレフの元を訪れた時からずっと、同じ願いを繰り返すのだ。
アメリアに会って欲しい。もしそのせいで彼女が全てを思い出し、レフの元へ戻っても構わないと。
最初は何を言い出すのかと思っていたが、どうやら彼は本当に心の広い男のようで。アメリアが幸せになるなら、自分の元から去っても構わないと言う。
それに、レフ自身のことも。
彼は最初から、責めることも詰ることもせず、なぜか好意的だった。
眩しそうに、ベルマンを見上げる。
アメリアの結ばれたのがこの男で良かったと、心から思う。
「さて、もう夜も遅い。馬車の手配をするから、少し待っていろ」
「ありがとうございます」
「ウィルトも心細い思いをしているだろう。早く帰ってやりなさい」
夫妻には今年六歳になる息子がいる。
一度しか会ったことのないその子が、とても聡明な子供だという話は、レフの耳にも入っていた。
しかしこんな真っ暗な嵐の夜に、家でたった一人留守番では、あまりに可哀相だ。
分厚い雲に覆われていても、レフにはその向こうの月の位置が、正確にわかっている。
日が変わる前には帰してやらなければと、部屋を出て行こうとしたとき。レフはふいに足を止めた。
「ベルマン?」
真っ青になって、自分を見ている。急変した顔色に、レフは首を傾げた。
「どうした」
「…ウィルトは、こちらにいるのではないのですか?」
「何だと?どういう意味だ」
「往診から帰ったとき、家には誰もいない様子だったので…ウィルトもアメリアと共に、王宮へ来ているのだと、てっきり…」
どんどん顔色の悪くなるベルマンの言葉を聞いて、レフもさっと表情を変える。
子供の姿は見ていない。アメリアの世話を任せた者たちからも、そんな報告は聞いていない。
「お前は隣で、誰か姿を見ていないか聞いて来い。私は他の者にあたる」
「はいっ」
二人は慌てて部屋を飛び出した。
しかしアメリアを最初に保護した正面門の衛兵達も、その他誰に聞いても、王宮で幼い子供の姿を見た者はいなかった。