「本当にね。彼は貴方のこととなったら、到底ヒトとは思えないほど頭が回るんですよ。…普通なら十年かかったでしょう。本人は五年と予言して王宮を去りました。それをまさか、三年で形にするとは、ね」
分厚い書物を、クリスはレフの方へ押しやる。じっとそれを見つめているものの、レフはクリスが言ったように、けして手に取ろうとはしない。
これは最近、王都にある最高学府を通して発表された、一人の若者の論文だ。
賢護石の医療について、過去の事例を紹介し、それを深く考察した論文。内容には著者自身が経験した、賢護石に対する手術の記録も詳細に記されている。
三年前、サシャの谷にある王立文殿へ旅立った、ウィルト・ベルマンが書いたもの。
彼が絶望を経験した夜に誓った、研究の成果だった。
頑なに手を出さないレフを、呆れ顔で見ていたクリスは、仕方なく一度押しやった書物を引き寄せて、それをパラパラとめくった。
「無医村であるサシャの谷に赴き、地域医療に携わりながら医学を学びたい。大学へ行く代わりに、王立文殿にある書物を紐解いて、既存の枠を超えた医師になりたい…なんて。彼がそんな愁傷なことを考えると、本気で思っていたんですか?」
「クリス…お前は最初から」
「もちろん知っていました」
「どうして、そうならそうと!」
旅立つ前の日、ずっとそばにいると誓った幼い日の言葉を詫び、必ず戻ると囁いたウィルト。
今まで鬱陶しがっていたくせに、まさかウィルトが一時的にでも自分のそばを離れるなんて、思ってもみなかったレフは……少なからずショックを受けて。
その場はなんとか平静を装い、彼を送り出したものの、しばらく何も手につかなかったのだ。
ぱたん、と書を閉じたクリスは、真剣な眼差しでレフを見つめている。
「本当のことを知っていたら、貴方は彼が旅立つことを許しましたか?」
「………」
「許すはずがないでしょうね。貴方だけじゃない。賢護五石(ケンゴゴセキ)はみんな諦めていた。おそらく緑の賢護石は長年、深い葛藤を抱えていたでしょう。でも他の賢護石たちは、緑の賢護石にしか自分たちの治療は出来ないのだと、思い込んでいる」
「クリス」
「これが発表されたその日に、リュイスは私のところへ駆け込んできましたよ。ウィルはいつからこんなことを考えていたんだと言ってね」
言いながらクリスは、もう一度その論文をレフの方へ押しやった。
「これは貴方に贈られるものです」
「私は…」
「よく見て下さい。それは論文の原本です。ウィルの自筆原稿を綴じてあるんですよ」
驚きに目を見開きながら、レフはおそるおそる分厚い書を手に取った。開いてみると確かに、至る所に修正が書き加えられている。
「印刷物の元になったものは、私が清書してエリクに届けてもらいました」
「じゃあ、お前」
「そうです、レフ。言ったでしょう?私にしか出来ないことは、私がやる。エリクにしか出来ないことは、エリクにやってもらう」
「………」