店主の苦言に、泰成は嫌味なくらい余裕の表情で笑った。
「そんな度胸があるなら、さっさと彼女を落としていれば良かったのさ。…女を眺めて口笛を拭くしか能のない船乗りや、夜な夜な後ろから人を刺すしか能のない通り魔にくれてやるほど、この命は軽くないのでね」
「呆れるよ、まったく…真っ先に疑われた若者の言葉じゃないな」
店主は溜め息をつく。
この町をいっそう暗くさせている通り魔事件の被害者は、昨日の夜で十二人になっていた。
被害者に少しも関連性が見られない、犯人も動機も不明の連続殺人。
解決の糸口さえ見えない犯行に、一ヶ月前からこの町は、港と街道を封鎖してしまった。犯人を逃がさないためだというのがその理由だが、一向に犯人が捕まる気配はなく、哀れな被害者ばかりが増えていく。
誰を狙うかわからない殺人鬼に、町の人々どころか船を出せなくなった船乗りたちも恐怖していた。
封鎖された町は、いつも以上にひっそりと息を潜め、暗く暗く沈んでいる。
しかし反対に、倉庫街の方は異様な活気を見せていた。
この町の警察が、よそ者の自分たちを守ってくれるなんて、少しも信じていない船乗りたちだ。
最初はまだ他人事だと思っていた彼らだが、被害者の中に仲間の船乗りが入ったことで、途端に震え上がった。
しかし船の出入りを禁じられては逃げることも出来ず、いつまでも宿代を払えない彼らは、隠れることすら出来ない。
そうなればもう、酒を飲むしかない、というもので。
毎夜毎夜の乱痴気騒ぎを繰り返し、いっそう町の人々に眉をひそめさせ、そんな陰気な状況に一触即発の事態を見せている。
この封鎖が意味する、本当の思惑が彼らに知れたら、真っ先に血祭りに上げられるのは、泰成だろうけど。
「早く旅立つことだよ、タイセイ。この町にいても、何一ついいことなどない」
店主は眉を寄せる。
旅行者である泰成は最初から容疑者として疑われていたが、殺人は彼が町へ来る前から起こっていたのだし、また八番目の被害者が出た夜、この店で飲んでいたことが彼の無実を証明した。
「出来るなら、やっている」
不機嫌そうな声で返す青年の、苛立たしそうな瞳。まだまだ子供だと、店主は溜め息を吐いた。
「どうにかならんのかね?奥様から連絡はあるかい」
「毎日のように書状だけは届いているよ。さすがにもう、本人は来ていないが」
店主の言う「奥様」というのは、侯爵夫人のことだ。
彼女は年若い泰成に夢中で、彼を放さないためなら何でもするくらいの執着を見せている。
町の完全封鎖を命じたのは、彼女に逆らうことの出来ない夫の、侯爵だった。
街道封鎖にしても、港の封鎖にしても、あまりに唐突で理不尽なものだった。
封鎖された港から、一隻の船だけが開放されたことで、泰成はようやくこの事態を引き起こしている人物に思い当たった。
……美しく妖艶な、侯爵夫人。
首都にいる頃出会った彼女は、もっと聡明な人だった。きまぐれな泰成の誘いを受け入れ、ベッドの中でも外でも、彼女は気だるい表情を崩さなかった。
それが変わったのは、いつからだろう。
祖父から帰国の命を受け取った泰成に、自分の領地から船に乗ってはどうかと誘いをかけてきた頃は、まだ変わりなく見えたように思う。
本格的に不審な行動を見せたのは、首都を出ることになった日。
初めて会った夫の侯爵の前で、彼女は平然と泰成の腕に自分の腕を絡め、しなだれかかって唇を寄せた。
驚きはしたが、それが遊びの延長なのか何なのか、泰成にも判断がつかなかった。
年若い従者が顔を真っ赤にしていて、後で口うるさく言われるだろうなと、そっちの方が気になったくらいだ。
港から開放された、ただ一隻の船は、泰成が乗るはずだった学術船団。
彼女は最初から、泰成をこの町から逃がさないつもりだったのかもしれない。
どういうつもりなのかと、彼女の真意を確かめに赴いたマナーハウスで、泰成は侯爵夫人から予想もしなかった言葉を聞かさた。
曰く、
――私と一緒に逃げて……!
最初、泰成には意味がわからなかった。
泣き叫ぶ侯爵夫人の後ろには、暗い目をした男が立っているのだから。彼女の夫、この地の領主サマだ。
夫同席で言うことか?
そもそも、町の人々全部を巻き込んで、たまたま起こっていた連続殺人まで利用して、自分のような若造一人、引き止めるつもりか?
馬鹿馬鹿しさに呆れ返り、下らなさに苛立った。
口を聞く気にもならず、黙って大きな屋敷を後にした泰成だったが……依然として封鎖は続いている。
もちろん例の殺人鬼が捕まっていないせいだが、執拗な封鎖は泰成を諦められない侯爵夫人がさせていることも明らかだ。
泰成はグラスを呷って、店主の方へ押しやった。