日本語で尋ね泰成のことを、男は驚いた表情で見上げている。泰成はにやりと笑って、彼の腕を掴み直した。
「日本人だよ、これでもね」
「…離しなさい」
抑揚のない声は確かに日本語だ。泰成は僅かに眉を寄せた。
どんな状況であっても、誰かに命令されるというのが、何より嫌いなのだから。
「断る。…なあ、あんた。さっき撃たれてたよな?」
「貴様には関係ない。離せ」
「撃たれてるよなあ…そのナリじゃ」
まじまじ見下ろせば、シャツにも穴が開いていて、血がついている。しかしそこから覗く肌には、傷ひとつない。
近づいてくる複数の足音に顔を上げた泰成は、掴んでいる細い腕が、びくんと震えたのにに気づいた。
視線を落とし、怯えるように青ざめた顔を見た泰成は、考えるよりも早く、着ていたコートを脱いで、頭ひとつ背の低い男にそれをかぶせた。
驚いた男は身を捩るが、泰成には大した力に感じない。
「な…っ何を!」
「しっ…おとなしくしてな。見つかるよ」
「うるさい、とっとと離せ!」
「いいから。…警官に見つかりたくはないんだろう?」
弱味に付け入るようなことを言って、泰成は自分のコートを着せたまま、細い身体を抱き寄せる。
「誰だ!そこで何をしている!」
鋭い警官の声に、抱き寄せた身体がまた震えた。
路地の先に現れた警官たちは、手元の明かりを掲げ、泰成の姿を浮かび上がらせた。彼らとて連日の事件と、行き場のない閉塞感で、苛立っているのだろう。
表情を強張らせ、睨むように泰成たちを見ている。
彼らから隠すように、腕の中の男をいっそう引き寄せ、泰成は不適に笑った。
「なんでもないさ。銃声に驚いて震えているから、宥めているだけだ」
答えながら、コートに包まれた背中を優しく撫でてやる。
それは警官をやり過ごそうと思った泰成にとって、ただのパフォーマンスでしかなかったのだが……逃亡者はそうっと、寄りかかるように身を預けてきた。
ちょっと、驚いて。
もちろん演技かもしれないが、それでも押し付けられた重みに、不思議なくらい心が揺れる。
黙ったまま、抱き寄せている人物をじっと見つめる泰成に焦れ、警官たちの中の一人が前へ出た。
「貴様、何者だ。ここで何を…」
そう言いかける恰幅のいい警官の袖を、隣にいた別の警官が、眉を寄せてて引っ張った。
「け、警部、こいつ例の日本人ですよ」
「…なに?」
狭い町ではすでに、正体不明の通り魔と並ぶくらいの有名人だ。
当然、今回の事件でも一番最初に疑われた人物だが、領主が身元を保証したことで、地方の警察などでは、一切の手出しが出来なくなった異国人。
ひくりと頬を引き攣らせる警官に、泰成はにやりと笑いかけ、華奢な肩を抱いたまま歩き出した。
「私はここに居合わせただけだ。この人は繊細な人でね。大きな音に驚いて、怯えてしまっている。…これ以上私の足止めをするなら、出世を諦める覚悟をしてくれたまえ、警部?」
それくらいのこと、領主夫人の力を使えば簡単なことだし、また泰成はそういう馬鹿なことを、本気でやる男だ。
警官たちは、途端に何も言えなくなる。
彼らには、ひらひら手を振って立ち去る泰成の後姿に、口汚く罵る言葉を投げつけるのが、精一杯だった。
警官たちから離れると、男は泰成のコートを羽織ったまま、もがくように腕の中から抜け出した。
「なんだい、助けてやっただろうが?」
拗ねた声で泰成が言うと、男は立ち止まりこちらを振り返った。
ちょうど街灯の下に立つ彼の、溜め息が出るような姿。
しなやかな身体の線と、突き刺すような鋭さを秘めて輝く、ストイックな黒い瞳。
顔かたちの造作が美しいのも確かだが、彼には存在そのものが放つ、圧倒的な美しさがある。
珍しくも呆然と見つめてしまった泰成に、男はコートを投げつけてきた。
「僕が頼んだわけじゃない。…触るな、反吐がでる」
投げられたコートを受け取り、慣れない批判の言葉に泰成は顔色を変えた。
「はあ?誰のおかげで助かったと思ってるんだ。私のおかげで面倒な追求もされなかったんだろ?」
追われて、撃たれて。
しかもあの時、確かにこの男は、泰成に身を預けていたはずだ。
そうっと……なにかまるで、救いでも求めるように。
しかし彼は蔑みの色さえ浮かんだ目で、泰成を睨みつける。
「お前のような人間は、屑以下だ」
「き、さま!誰に向かって…っ!」
かっとして声を荒げる泰成に、男は静かなくらいの言葉で「お前だ」と囁いた。
「僕の目の前にいる、お前だ。肩書きでも、後ろ盾でもない。お前自身だ」
すうっと腕が伸び、男の繊細な人差し指が、とんと泰成の胸を突いた。
軽い力だというのに、なにか感じたことのない衝撃を感じて、泰成は呆然と一歩下がってしまう。