【この空の下にA】 P:02


 それがあまり、癪に障らないというのが泰成にとって不思議だった。
 撃たれた惺が、死ななかったこと以上にだ。
 坊やと呼ばれた時だって、淡々とした自分を無視するような言い方は気に入らなかったが、それだけなのだ。
 祖父が自分を子ども扱いすることさえ、時には泰成を苛つかせるのに。
 惺の言葉は自分でも不可解だと思うほど、すんなり頭に入ってきた。

 誰に口を聞いているんだ、と血を上らせた泰成に、惺は静かな声で「お前だ」と囁いていた。
 ほっそっりとした指で泰成の胸を指し、まっすぐな瞳で泰成を射抜いた。
 ――僕の目の前にいる、お前だ。

 泰成が他人の、いや笠原家の名を笠に着ていると、指摘し嫌味を言う人間は、今までにもたくさんいた。しかしそのたび、泰成は「だからどうした」と、言い放っていた。
 笠原家の人間だから偉そうな事が言えるんだろうなんて、そんなもの負け犬の遠吠えでしかない。
 泰成が笠原家の人間だと言うことは事実であり、揺るがないものだ。
 その名の威光が恐ろしくないなら、若造の言うことなど聞かなければいい。知ったことではないと受け流してしまえばいいのに。
 泰成は自分が完成されていることを、自負している。
 力があるのは、笠原の名前じゃない。その名の使いどころを知っている、泰成自身だ。
 押すところ、引くところ。
 笠原の名を出す場面、腕っ節にものを言わせる展開。
 そういう使い分けが出来るから、自分は優秀なのであり、力を持っているのだ。

 それなりに修羅場だって経験しているのだと、泰成は惺を見上げた。
 道理のわからぬ、立場を弁えない人間に絡まれたことだってあるけど。残念ながら彼は、負けたことがない。
 ……それでも。

 泰成は我知らず、床を見つめて溜め息を吐いていた。
 なんという、不思議な男だろう。
 滑り込むように、音もさせずに泰成の心に入り込んで、心臓を鷲掴みにしてしまった。
 美しい黒瞳に射すくめられ、お前だ、とそう言われたとき、泰成は初めて自分を認めた人間に出会ったような気がした。
 大して何を話したわけでもないのに。
 惺がずっと、泰成の全てを見ていたような、そんな静かな動揺が泰成を揺さぶったのだ。

 もっと知りたい。
 この男のこと。

 とん、と肩に当たったものに気付き、泰成は再び顔を上げる。
「まったく…この状況で眠れるなどと、どこまで図太いんだ、あんたは」
 何者かもわからぬ自分を横に、平気で寝られるこの男の図太さはなんだろう。
 力の抜けた腕が滑り落ち、肩に当たっている。
 ゆっくり立ち上がった泰成は、惺の手を取ると、コートを掛けなおしてやった。
 眉を寄せる惺の表情に、言い知れぬ疲れが滲んでいるような気がして、思わずその髪を撫でてみる。何度か細い髪に指をくぐらせていると、わかったわけでもないだろうに、なんとなく惺の表情が柔らかくなってきたような気がした。
 ……こんなこと、今までに他人にしたことがあっただろうか。
 惺から手を離し、振り返る。
 真っ暗な廃墟。
 物音ひとつしない、暗闇。

 長い間放置されているその空間が、あまりにも惺に似合っている気がして。
 当然のようにそこで眠りにつく惺が、もう目覚めないような気がして。
 言い知れぬ不安に、泰成はぞくりと寒さを感じた。
「…こんな所に一人でいるな、惺…」
 やっと見つけたのだから。
 こんなにも誰かが気にかかったのは、初めてなのだから。
 惺を見下ろしたまま、少し思案するように腕を組んでいた泰成は、痩せて見える頬を軽く叩いてみる。
 起きる気配のない様子に苦笑いを浮かべ、床に敷いていた上着を取り上げた。何度かそれを払い、身に纏う。
 さてとばかりに惺を振り返り、口元に意地悪な笑みを浮かべた泰成は、惺を起さないよう静かに彼を抱き上げた。