【この空の下にA】 P:03


 
 
 
 ……朝が来て。
 驚いたのは、惺だけじゃなかった。
「泰成様!帰ってらっしゃるつもりだったなら、ちゃんとそう言って下さいっ!大体いつお戻りになったんですか?!また勝手にホテルの従業員入り口を…って、え?」
 どこで聞いたのか、泰成が戻ってきたことを知って飛び込んできた彼は、きょとんとした表情で立ち竦んでいた。
 ひょろりと細いその青年は、まだ青年というより、少年といった雰囲気だ。
 肌の色も髪の色も淡く、黙って立っていれば人形のように見えるだろうが、勝気な瞳が意志の強さをうかがわせる。
 彼は目を丸くして、自分と同じくらい状況をつかめずに呆然としている惺を見つめ、にやにや笑う泰成と見比べていた。
「あの…あれ?」
「どうした」
 尋ねる泰成の口元が、意地悪な形に歪んでいる。今のこの状況を、正確に把握しているのは泰成だけだ。
「え…っと…」
 何を、どう尋ねるべきなのか。少年の思考はなかなか纏まらないらしい。
「…説明しろ」
 低い声で尋ねる、不機嫌な惺の声が日本語を紡ぐことに、泰成の前で固まっている少年はいっそう目を見開いた。
「どこから説明して欲しい?というか、何を説明する?」
 一人楽しそうな泰成は、すたすたとベッドに近づいて腰を下ろした。
 惺が身を起している、豪奢で大きなベッドの端に。
「貴様、いい加減にしろ!」
 近寄ってきた泰成の胸倉を掴み、鋭い声で怒鳴る惺に、はっとして少年が駆け寄ってきた。
「泰成様に失礼な口をきくなっ!」
 割って入ろうとするが、惺に睨みつけられ立ち止まってしまう。
「君は黙ってなさいっ」
 ぴしゃりと頭ごなしに叱られて、少年はかあっと顔を赤くしたまま、泣きそうな顔になった。
 その様子に惺は一瞬、眉を寄せて。いっそう泰成を引き寄せる。
「どういうつもりだ」
「あんたが勝手にしろというから、勝手にしたつもりだが?」
「お前な…!」
「あんなところで熟睡できるあんたと違って、育ちがいいんだよ」
 惺の手を掴み、自分から引き離してしまうと、泰成は傍で立ち竦んでいる少年の頭を何度か撫でてやった。
「この子は秀彬(ヒデアキ)という。来栖(クルス)秀彬。日本から私について来た、お目付け役というところか?」
「そんなことは聞いていないっ!」
 苛立つ惺の言葉に、ぎゅうっと手を握り締めていた秀彬と呼ばれた少年は、きっと睨むような鋭い視線を、泰成に向けた。
「この失礼な男は、一体何なのですか泰成様!?」
「秀彬」
「あまりに言葉が過ぎます!日本人のようですが、泰成様に対してあまりにも…」
「秀彬、煩いよ」
 泰成に言葉を遮られ、秀彬はしぶしぶ黙って、悔しそうに唇を噛み締めた。
「いいかい、秀彬。彼の名は惺。私の客人だ」
「泰成様…」
「惺はしばらくの間、ここに滞在する。滞在している間は、私に仕えるのと同じように、彼にも仕えなさい」
 淡々とした主の言葉に、少年は可哀相なくらい驚き、首を振った。
「嫌ですっ」
「…何?」
「嫌です!こんな、氏素性もわからぬ者に仕えるなど、出来ませんっ!どうしてそんな酷いことをおっしゃるんですか?!私が泰成様にお仕えするのは使命ですっ。この方をお客様としてもてなすことは出来ても、泰成様と同じように仕えるなんて、そんなこと…っ」
 癇癪を起したように反論していた秀彬は、頬を叩かれた痛みにしばし呆然として。何が起こったのかわからないというように自分の頬へ手をあて、それから瞳一杯に涙を浮かべた。
「たい、せい…さま」
「聞き分けのない子だな、お前は」
「って…だって…」
「私の言うことが聞けないなら、お前がここにいる意味はない。出て行け」
「泰成様っ」
「出て行きなさいっ!」
 怒鳴る泰成の大きな声にびくっと身体を震わせ、思わず閉じた目を開けた秀彬は、くしゃあっと表情を歪めた。
「たいせいさま…」
「何度も言わせるな」
 ふいっと背を向けられてしまう。
 秀彬は何か言いたそうに泰成の背中へ手を伸ばしかけ、それを引っ込めた。
 伝わらない思いを閉じ込めるように、ぎゅうと手を握って。ぼろぼろと泣きながら、下を向く。
 ゆるゆると首を振る秀彬の前で、泰成は何もなかったかのように惺の傍へ腰を下ろし、彼の髪に触れるのだ。
 そうなれば、居心地が悪いのは、誰よりも惺だと言う話で。
「…お前、自分が無茶苦茶なことを言っている自覚はないのか…」
 無遠慮に触れてくる泰成の手を払いのけて、じとりと睨みつける。
「無茶なんかじゃないさ」
「あのな…」
 ひっくひっくと苦しげにしゃくりあげる秀彬は、ようように顔を上げて。困惑顔の惺と目が合った途端、踵を返して走り出していた。
 ……ばたん、と。乱暴に閉まる扉の音。
「まったく、いつまでも子供で、困ったものだ」