【この空の下にA】 P:04


 やれやれとでも言いたげに、肩を竦める泰成は。見かけよりも随分と荒っぽい気性らしい惺に、ベッドから蹴り落とされてしまう。
「いった…何を!」
 いまだかつて、泰成をベッドから蹴り落とした者などいないのに。
 怒るよりも唖然とした様子で見上げる泰成の前で、ベッドを抜けだした惺が仁王立ちになっていた。
「昨日から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、本気で愚かだな、お前は」
「惺?」
「彼の言うことは、当然だろうが!子供なのはお前だっ!」
 きつい口調で責められた泰成は、さすがにむっとした表情になると、その場に胡坐をかいて開き直ってしまった。
「そうは言うがね。私は生まれながらに彼の主だし、あの子は生まれたときから私に仕えることが決まっているんだ」
「…はあ?!」
「そういう家なんだ。こればかりは惺に口を出されることじゃない」
 拗ねた表情で見上げてくる泰成。
 自分でどう思っているのかはともかく、そうしていると彼は驚くほど子供っぽく見える。
 忌々しそうに、軽く舌打ちをして。惺は泰成の横をすり抜けた。
「勝手にしろ」
 そう言いながら、自分の方こそ勝手に部屋を横切り、窓辺に寄って外を見下ろした。

 改めて視線を巡らせれば、そこはベッドだけでなく、あらゆる調度品が豪華に飾られた広い一室。窓から眼下の通りを確認して、町で唯一のホテルだと知る。
 最上階なのだろう高さと、部屋数の知れないそこは、このホテルの中でも高級な客室なのだろう。
 落ち着いた色合いの主寝室へ、いつの間にか拉致されていた惺は、自分の姿を見下ろして再び溜め息を吐いた。
「…また、懐かしいものを…」
 穴だらけになっていたはずのシャツを脱がされ、着せられていた浴衣。おそらく泰成のものなのだろうそれは、惺の身体には大き過ぎて、気をつけていないとしどけなく襟元が開いてしまう。
「日本を離れて長いのか?」
 惺の呟きを耳にした泰成が、さっきまでの身勝手な振る舞いが嘘のように、落ち着いた様子でそばに立っていた。
「お前には関係のないことだ」
 突っぱねる惺に、やれやれと肩を竦めて。泰成は窓辺にしつらえられたテーブルへグラスを置くと、惺に椅子を勧める。大人の男でも三人はゆうに腰掛けられそうな、背もたれの大きな革張りのソファ。
 仕方なく腰掛けた惺の前に注がれたのは真っ赤なワインだった。
「…朝っぱらから…」
「嫌いか?」
「そういうことじゃない」
「不味い水を飲むくらいなら、こっちの方がマシだろう」
 この国に来て二年になるが、水の豊かな日本で育ったせいか、この国の水の不味さには慣れない。それでも首都にいた頃はまだ、金さえ出せばまともな味の水が手に入ったのだけど。この町と来たら、誰も求めないからなのか何なのか、封鎖される前も今も、水を売るという概念そのものが欠落しているのだ。
 わがままな泰成の言動に、惺は嫌そうな表情で真っ赤に染まったグラスを見つめていた。
「…贅沢な」
「それが許される立場でね」
「言ってろ」
 むすっとした顔で、それでも注がれるままにグラスを傾ける惺の姿。泰成は向かいのアームチェアに腰掛け、長い足を組む。
 溜め息をつきたくなるような気分で、その様子を眺めていた。

 自分でも、遊んでいる自覚はある。
 日本でもこの国でも、美しいと思う人には何人も会った。
 でも惺は、根本的に何かが、まるで違っているのだ。

 なんというか、身体の内側から溢れてくる光が、惺を包んでいるようにさえ見える。容姿の美しさもさることながら、昨夜月明かりの下で見たのとはまるで違う、陽光に照らされた姿には、気品さえ感じた。
 神秘的、というのだろうか。
 苛立ったり、呆れたりと、表情は豊かに色を変えている。なのに彼の心が動いているようには見えない。
 なんだか全てを、遠くから見つめているみたいに。
 警官たちから泰成が庇ってやったとき、確かに彼は怯えていたはずなのだが。

「…なんだ」
 熱を帯びる泰成の視線が気に入らないのか、惺は不愉快そうに眉間を寄せ、グラスを置いた。
「いや…今日は、応えてくれるんだな」
「あ?」
「こうして、言葉を交わしてくれるんだなと、思ってね」
 ふっと口元を綻ばせ、喜びをあらわにする素直な泰成の表情から、惺は視線をそらせた。
「惺?」
「…いいのか」
「何が」
「彼…あの少年を、放っておくのか?」
 なんだか、苦しげに。
 係わり合いになる気がないのに尋ねてしまう、自分を詰るように、惺はこの部屋から走り去った少年を心配していた。
「別に…いつものことだしな。良くも悪くも、あれに行くところなんかないんでね」
「…酷いことを」
「よく言われる」
 惺から睨まれ、泰成は肩を竦めた。