「私がこの国に来たのは、二年前だ。秀彬は十三だった。言葉のわからぬこの国に慣れるまで、半年は役に立たなかったよ」
まだ十五の少年に、泰成は多くを求め過ぎるのかもしれないけど。秀彬が従者として仕える以上、そう扱ってやるのは、泰成の義務でもある。
「来栖家というのは、代々我々、笠原家に仕えているんだ。私の祖父には、秀彬の祖父が。私の父には、秀彬の父が仕えている。秀彬が生まれたとき、私を引き合わせた父が言ったものだよ…これはお前のものだ、とね」
「だからお前が勝手に振り回すのも、当然だと言うのか?」
厳しい惺の言葉に、泰成はにやりと口元を歪めた。
「そうじゃない。秀彬にしても、代々の来栖家の人間にしても、本気で嫌なら逃げ出せばいいことだろう?…それを使命だと言い切って、勝手に仕えているんだ。他にどうしろと?」
泰成は生まれたばかりの秀彬に会った時のことを、忘れてはいない。
いくら生来、我がまま勝手な泰成でも、生まれた時に引き合わされ「お前に仕える者だ」などと紹介されたものだから、これでも秀彬のことは、弟より気に掛けてやっているつもりだ。
まだ言葉もまともに話せない、生後何週間という秀彬と会った時。当時四歳だった泰成が手を差し出したのは、未知の生き物に対する純粋な興味でしかなかった。
その手を、正確に言えばひとさし指を、小さな秀彬は驚くような力で握り締めた。
……びっくりして。
でも、手を引こうとは思わなかった。
――これは、お前のものだ。泰成…この子は命の限りお前に仕えるだろう。だからお前も、力の限りこの子を守ってやりなさい…。
傍らの父が囁くのに、泰成は無意識で頷いていた。
お前に仕える者だと与えられた、小さな命。懸命に泰成の指を握っている手。
生意気な弟たちなどより、よほど可愛くて。泰成は泰成なりに、秀彬のことを大切にしている。
だからこそ、不思議で仕方ない。
好き勝手にやっている泰成だからこそ思うことなのかもしれないが、秀彬は平気なのだろうか?生まれたときから決められた役目というものに、満足しているとでも言うのだろうか?
泰成はいつか秀彬が「自分の道を歩きたい」と言い出したとき、出来る限りのフォローをしてやるつもりでいる。家などには縛られたくないと、彼が言い出すときに。
なのに、どうだろう?
彼は大人たちから「泰成の留学に同行しろ」と命じられ、迷いもなく了承した。
まったく、大人の考えることは理解できない。
秀彬に泰成の無茶を止められるはずはなく、この国へ来る船上で必死に言葉を覚えた秀彬が、異国の地で泰成のフォローなど、出来るはずもなかった。
もちろん、それにしては立派にやれている方なのだが。
ひょっとして、だからこそ大人たちは泰成の洋行に、秀彬をつけたのだろうか?
泰成が秀彬を心配するあまり、派手な行動を控えるだろうとでも?
それはあまりにも、泰成のことを理解できていなさ過ぎる。
泰成が何かをやりたいと思ったら、秀彬でも現当主である祖父でも、同国の民でも危険に晒すことは、この留学の経緯で証明済みだというのに。
確かに言い過ぎだったかと。
顔をくしゃくしゃにして泣いていた秀彬が思い出されて、ため息を吐いた秀彬は、目の前の惺がじっと自分を見ていることに気付いて、苦笑いを浮かべた。
「私は、したいことしか出来ない性分なんだ」
「そういうのを世間では、我がままと言うんだよ」
「まあ、そうだな」
頑固で口うるさいが、まだ幼くて怖がりの秀彬。もっと彼を大切にしてやれと、この国に来てから知り合った者にも、何度か言われたことがある。
しかし泰成には、わからないのだ。
これ以上、どうしたらいい?
手を上げたのも怒鳴ったのも、今日が初めてじゃない。目の前に欲しいものがあると、泰成は止まることが出来ない。
「本当に…あんたは不思議な人だな」
いままで誰の言葉も届かなかったのに、それを惺が言うだけで、泰成には堪えてしまう。
この客室の隣には従者のための客室が用意されていて、秀彬はそこに泊まっている。今もきっと、そこにいるだろう。
まだ泣いているかと思うと気にはなったが、会えば余計なことを言いそうで、出向く気にはならなかった。
泰成はグラスを置き、ゆっくり立ち上がって惺の傍らに近づいた。
逃げられるかと思ったが、面倒そうに泰成を見ているだけで、彼は動かない。
惺の隣に座った泰成は、華奢な身体を抱き寄せて、襟元から手を滑り込ませた。
「…おい」
「あんたを着替えさせたとき、確かめたよ。撃たれた傷なんか、一つもなかった」
「………」
「聞かれたくないのか?」
「別に」
「どうせ聞いても答えない、か?」